白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2014/05/21(水)   CATEGORY: 未分類
ゴマン・ハウス内覧
日本で最初にチベットの出家僧の僧団が常駐したのはどこでしょう? まあチベット・オタクは知っていますよね。広島駅すぐ近くの山の中にある文殊師利大乗仏教会である。この僧団はチベット仏教最大宗派ゲルク派の三大僧院の一デプンの有力学堂ゴマン学堂の流れを汲む。なぜ、ゴマン学堂のお坊さんが日本に来ていらっしゃるのかといえば、日本に長く滞在され、人生の最後には文殊師利の看板ラマとなったゲシェ・テンパゲルツェン師がこの学堂出身だったからである。

 テンパ師は財団法人東洋文庫の招きによって来日された。東洋文庫は今でこそミュージアムなどを併設しているためそちらで有名になっているが、当時は世界的に有名な東洋學の図書館兼研究所であった。ここにはチベット研究室があり、『サキャ派全書』を出版したサキャ派の僧ソナムギャムツォ氏、中沢新一氏のラマとして名高いニンマ派の高僧ケツゥン・サンポ氏などそうそうたるメンバーを外国人研究員として迎えていた。

 過去に東洋文庫の文庫長をつとめられた北村甫先生は多田等観(ダライラマ13世の時代チベットのセラ大僧院に七年留学した僧)の弟子であり、多田等観氏が「ゲルク派は私が分かるので、それ以外の宗派を」ということで東洋文庫の初期にはサキャ派やニンマ派の高僧が招かれたのである。

 で、多田等観先生もなくなられたため、ゲルク派からということで、テンパ・ゲルツェン師が外国人研究院として東洋文庫に招かれた。 テンパ・ゲルツェン師は東洋文庫ででる給与の大半をインドのゴマン学堂に送り、みずからはトイレもお風呂もない西ヶ原の一間のアパートにつつましくお住まいであった。後に学堂長になられた時「経営とか政治は嫌いだ」とおっしゃられていたので、日本での生活は孤独であっても、政治よりはましであったのかもしれない。師と日本の関わり方については、師がなくなられた際のエントリーを参照していただきたい。

 テンパ師の属するゴマン学堂は、17世紀の頃よりモンゴル人地域への布教の主力であった。歴史書には何人もの「ゴマン・ラマ」が現れ、チベット、モンゴル、満洲関係の中で活躍+暗躍してきたことが分かる。1959年のダライラマのインド亡命にともないゴマン学堂は南インドのカルナタカ州に移動したが、現在もカルムキアやモンゴル共和国やブリヤートの留学生を受け入れては、教育し、また本国へかえすという伝統的な役割を維持している。そのような意味で、ゴマンハウスもゴマン学堂のアジア布教史の一環に位置づけることもできる。

 護国寺で開催されてきたチベット仏教基礎講座bTibetも文殊師利が後援しているので、ここで何度も法座をもたれた織田無道そっくりゲン・ロサン先生もゴマン出身である((→参考エントリー)。

  で、この「文殊師利」の生みの親であるNさんから、「チベット僧が東京に常駐する場として、住宅を一棟購入した。内覧会にこないか」とのお誘いをうけた。そこで、18日、仮称ゴマン・ハウス(名前からしてNYのチベットハウスを意識している 笑)を訪れた。

 ゴマン・ハウスは旧高松宮邸ちかくのオハイソな住宅街にある三階建の、新しいがよく見ると中古の住宅であった。

Nさん曰く「チベットの清僧の座であるため、酒・たばこ・そのほかもろもろの俗塵にまみれたものは御法度。汚れたものは1階の事務所より上にはあがれません。2階はラマと訪問者が学ぶスペースなので学者まではOK。三階は高僧の個室と高僧に随行するお世話ラマの雑魚寝部屋なので俗人とくに女性は絶対禁足」だとのこと。

 品川駅が近いこのロケーションは、新幹線にも羽田の飛行場にもアクセスがよいこと、また、白銀高輪という住所の格の高さから選んだのだという。Nさんはゴマン・ハウスを信仰の場というよりは、仏教を学ぶ場にしたいとこういった。

Nさん「僕たちが若い頃東洋文庫にいくと、チベット研究室にゲシェー(故テンパゲルツェン師)がいて、仏教を学ぶ人が集う場がありましたよね。あの時の東洋文庫みたいに、ここにも、チベット仏教を学ぶ学生やお坊さんが集まってくるといいな。」とのこと。

 ナーランダ僧院直伝のチベットの仏教学には、顕教は論理学から中観哲学、唯識哲学までじつに様々な思想が含まれている。チベット僧はこれを一生かけて学び身につけるわけだから、日本人がこのチベット仏教を学ぼうとしてもそのほんの一部分にとりつくのがせいいっぱい。でも、そのほんの一部に触れただけでも、既存の諸思想からは得られない高度な精神性と知性に驚くはずである。

 昨今多くの日本人〔に限らず中国人も韓国人もタイ人もベナトム人も〕は明らかに論理的に思考する能力と感情のコントロール術を欠いている。自らの聞きたいこと聞き、見たいものだけ見て、「癒し」をもとめてパワースポットとか回っているが、こんなことしていは、人格も知性も向上しない。しかし、チベット仏教では、入門と同時に論理学を学ぷことが示すように、論理的な思考を重視する。理性的でない昨今の風潮は大いに反省を迫られることになると思う。チベット仏教がその歴史を通じて世界のもっとも豊かな帝国の上層階級をひきつけてやまなかった背景には相応の理由があるのである。

 ゴマン・ハウスには当面、ゲシェ(博士)クラスの僧が一名、担当につくそうである(現在不定期)。

 「当然、ゲシェをお世話する小坊主もくるよね。」
 Nさん「いえ、僕はなるべくいるようにしますが、僧は一人です。」 
 「ちょっと待って、ゲシェがそこのピーコックで自分で買い物して自分で食事つくるわけ?」(チベットの僧院では、博士クラスの僧は食事も縫い物も洗濯も、みな小坊主がやる。従って、余計な豆知識であるが、チベットの僧はたとえ一般僧であっても信じられないくらい生活機能が高い。その上性格も大概良い。)
 Nさん「そうです」
 「それはまずいんじゃない。精神的に不安定な女性とかが『私がお世話します』とかいって上がりこんできて、まかりまちがってお坊さんを破戒させちゃったらどうするのよ」
 Nさん「普通の人は二階以上にあげないから大丈夫です」

 よくできたゲシェなら最初っからへんなのは相手にしないから大丈夫だろうけど、やはりここ一番の不安である。
 そのあと、Nさんはハコモノを大きくしていく夢を語りはじめた。しかし、私はハコモノなんてある意味どうでもいいと思う。チベット仏教は1959年に国を失った時、広壮な僧院も宝冠をかぶった仏像も彩色された美しい仏典も何もかもすべて失った。しかし、人が残っていたため、僧団は存続することができた。シッキムやインドに逃げ込んできたチベット僧たちは、粗末なテントや掘っ立て小屋にくらしながらも、その人格の輝きは覆うべくもなかった。
 たちまち、まずはヒッピーからはじまり、ヒッピーが社会にもどると、今度は西洋社会のリベラルでアッパーな人々にチベット仏教は浸透していった。

 今南インドの再建チベット僧院においては、チベット本土にいた時と同じように、僧侶たちは日々のおつとめをし、論理学のディベートをし、若い僧侶の教育を行っている。この歴史が示すように、「集まる場」は確かに必要だが、それは華美である必要も広壮である必要もないのだ。どれだけ伝統を体現した学僧・修業僧がいるかの方がむしろ重要なのだ。

  チベットの僧院では、小坊主から老僧までいて、男ばかりで一つの家族のように仲良く暮らしている。勉強のできる僧は多くの弟子にかしずかれ若い僧の教育にあたり、できない僧も高僧に仕えることを誇りとしている。小坊主は成年僧からかわいがられて育ち、老僧は若い僧にみとってもらえる。僧団の生活は社会的に名のある人々によって支えられているため、庶民もそれをまねて、僧侶を尊敬し、それを範として自らの行いを正すようになる。これは一人の僧侶でできることではない。

 まあ、そういうわけで、ハコモノを大きくする夢よりも、高僧が一人でも多く日本に常駐するようになり、できたら、日本人の中からその教えを継ぐものがでることを夢みる方がチベット仏教的には正統な夢といえよう。

 最後に本場のゴマン学堂がとれだけたくさん僧侶がいるかを示すために、全学堂総出の記念撮影写真をあげておく。真ん中の色の変わったところにいるのが高僧たちです。一人残らず戒律をまもって清い生活をしている清僧です。壮観でしょ。
gomangphoto.jpg
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