白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2014/07/03(木)   CATEGORY: 未分類
シムラ条約調印百年 
本日7月3日はシムラ条約が締結されて百年目である。ちなみに、今日が百年目なのに気づいたのは夕方になってからで、どうしても今日アップしたくて急いで書いたこのエントリーにはマチガイがあるかも。マチガイに気づいた方は、ふるってご指摘ください。さて本文です。
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 20世紀初頭、清朝はチベットやモンゴルにかつてない実効支配を開始した結果、チベットもモンゴルは猛反発した。
 1909年にダライラマ13世は清朝皇帝に由来する称号の使用をやめ(というか1904年には中国はダライラマ13世から一方的にダライラマ号剥奪してるけど爆笑)、1913年には亡命先のインドから帰国して、自立を宣言した。モンゴルにいたっては辛亥革命の一ヶ月後の1911年にはジェブツンダンパ8世を首班にした独立国家を宣言。1913年にはチベットとモンゴルが互いの独立を承認しあうチベット・モンゴル条約を結んだ。

 チベット人とモンゴル人はこのようにともに強く独立国家としての承認を強く望んでいたが、帝国主義の時代、両者の国際的地位はご当地でのグレート・ゲームの二大プレーヤー、イギリスとロシアの意向で決まることとなった(当事者の頭こなしは今から考えるとヒドイ話)。

 1913年11月5日、中国とロシアの間で、ロシアが外モンゴルに対する中国の宗主権を承認し、中国は外モンゴルの自治を承認する、露中宣言を行い、1914年7月3には、イギリスとチベットと中国の間で、イギリスが外チベットに対する中国の宗主権を承認し、中国は外チベットの自治を承認するシムラ条約を締結した。

 チベットは20世紀に入るまで清朝の支配を受けたことがなかったので、この中国の宗主権を認める条は耐え難いものがあったが、イギリスに説得され、国際的地位のために涙をのんだ。中国もこの条約に不満であった。それはここで述べられている外チベットと内チベットのラインが彼らから考えると「チベットより」で受け入れがたかったからである。
 内チベットとはチベットから見れば東チベットのことであり、内・外表記は中国からみた表現である。東=内チベットはむろんチベット人の居住地域であるが、1906年以後この地域の広範な部分に中国軍が侵攻・占領した。中国側はこの地域=内チベットを広くとろうとし、ダライラマ政権は1906年以前の状態にできるだけ戻そうとして、会議は紛糾したのである。

 結局、中国の全権大使は草稿にイニシャルでサインをしたのみで、最終的に中国は条約の批准を拒み、シムラ条約はイギリスとチベット二国間で締結された。
 その後、モンゴルはロシアの支援の下自治を獲得し、現在も独立国である一方、チベットの方は、国際的な地位を曖昧にしていたため、1913年から1950年までの間、事実上独立国として機能したものの、1951年、中華人民共和国軍に滅ぼされた。
 その因縁のシムラ条約の英文からの和訳は以下の通りである。

 大ブリテン、中国、チベット条約 シムラ 1914年7月3日

英国・アイルランド連合王国と海を越えたイギリス領土の国王陛下にしてインド皇帝、
中華民国の大総統閣下、そして
チベットのダライラマ猊下
 〔この三元首〕は、双方の合意によってアジア大陸にある数々の国々の利益についての様々な問題を解決することを望み、かつさらに、それら政府の関係を規制することを心より望むため、この問題について条約を締結することを決意し、かつ、この目的のためにそれぞれの政府の全権大使、すなわち〔以下の三人〕を任命した。
 英国・アイルランド連合王国と海を越えたイギリス領土の国王陛下にしてインド皇帝〔の全権大使として〕、アーサー・ヘンリー・マクマホン卿、ロイヤル・ビクトリアン・勲章の等勲爵士(Knight Grand Cross)、インドの星二等勲爵士(Knight Commander of the Most Exalted Order of the Star of India)、インド政治外交局の長官
 中華民国の大総統閣下〔の全権大使として〕、陳貽範氏、〔二等〕嘉禾章Chia ho勲章将校
 チベットのダライラマ猊下〔の全権大使として〕、大臣ガデン・シェーダ・ペルジョル・ドルジェである。
 この三人は互いに全権を伝え合ったのち、よくかつ適性な形にあることを確認して、以下の十一条項の条約に同意し、これを締結したのである。

 第一条項
 現条約の附則に記入されている条約は、これより以後修正されたり、現条項と矛盾したり不一致があったりする場合を除いては、条約締結国を拘束し続ける。

 第二条項
 英国と中国の政府はチベットは中国の宗主権のもとにあることを承認し、かつ、外チベットの自治を承認しつつつ、チベットの領土の全体性を尊重し、外チベットの行政に干渉しないこと(ダライラマの選定権・任命権を含む)を約束する。これらはすべてラサにあるチベット政府の手の中にある。
 中国政府はチベットを中国の一省に編入しないことを約束する。英国政府はチベットやその一部を併合しないことを約束する。

 第三条項
 中国政府は、チベットの地理的な位置の利点、および、実効的なチベット政府が存在すること、インドの国境と隣接する国々の平和と秩序を維持することについて、英国の特別な関心を承認して、本条約の第四条項に述べられている以外の場合において、外チベットに軍隊をおくらないこと、また、軍民の役人を駐留させないこと、また、チベット内に中国人の入植地をつくらないことを約束する。この条約に署名した時点で、もしこのような軍隊や役人が外チベットに残留しているならば、三ヶ月の期間を超えずに撤退をすること。
 英国政府はチベットに軍民の役人(1904年の7月に、英国とチベットの間で結ばれた条約で規定されたた場合を除く)あるいは、軍隊(外交官の護衛を除く)、を駐留させず、また、チベットに入植地を建設しないことを約束する。

 第四条項
適当な数の護衛をともなった中国の高官がラサに留まることを認める過去の協約の継続性を、先述の条項は排除しない。ただし、この護衛はいかなる場合においても(in no circumstances)300人を超えてはならないことを、ここに規定する。

 第五条項
中国とチベットの政府は、チベットに関するいかなる交渉であれ、協約であれ、互いの国あるいはそれ以外の国ともおこなってはならない。ただし、1904年9月7日に英国とチベットの間で結ばれた条約、あるいは1906年4月27日に英国と中国の間で結ばれた条約に規定されたような、英国とチベットの間の交渉および協約を除く。

 第六条項
1906年4月27日に英国と中国の間で結ばれた条約の第三条項はここに無効となる。そして、1904年9月7日に英国とチベットの間で結ばれた条約の第九条項のdに記されている"外国"には中国は含まないことが理解された。
 イギリス交易に対して、中国交易あるいは中国以外の友好国との交易とも同じ好意的な待遇が与えられるべきである。

 第七条項
(a) 1893年と1908年に〔イギリスと〕チベット〔の間で結ばれた〕通商条約はここに無効となる。
(b) 中国政府の同意がある場合を除き、このような〔通商〕規則が決して条約に改変をもたらさないという条件で、1904年9月7日に英国とチベットの間で結ばれた条約の、第二、第四、第五条項を施行するべく、チベット政府はイギリス政府とともに外チベットに関する新たなる通商条約を遅滞なく取り決めること。

 第八条項
ギャンツェに駐留するイギリス外交員は、1904年9月7日に英国とチベットの間で結ばれた条約から生じた諸問題で、手紙の交換あるいはその他の手段を用いてもギャンツェにいては解決が不可能であることが判明したものについて、ラサのチベット政府と相談する必要がある時はいつでも、護衛とともにラサを訪れることができる。

 第九条項
 現条約のために、チベットの国境、外チベットと内チベットの境をここに添付した地図の赤と青のラインで示した。
 現条約のなにものをも、内チベットに対してチベット政府が有している現有の権利を損なうことはない。そしてその権利の中には、僧院の高僧の選定・任命権、宗教的な組織に影響するすべての事柄に対する全権を保持する権利を含んでいる。

 第十条項
 現条約の英語、中国語、チベット語の版はそれぞれ注意深く検討されて、一致することが確認されている。しかし、もしこれら三語の間に相違があるようであれば、英語版を優先する。

 第十一条項
 現条約は署名の時点から発効する。
 各全権大使がこの条約に署名・捺印した証拠として、英語で三部、中国語で三部、チベット語で三部〔を作成する〕ある。
 1914年7月3日、中国暦では中華民国三年の7月3日、チベット暦では木の虎の年の五月十日ににシムラで締結された。

大臣シェーダのイニシャル
A.H.M.のイニシャル
大臣シェーダの判子
イギリス全権大使の判子
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COMMENT

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● ダライラマ号「剥奪」
海野 | URL | 2014/08/04(月) 16:11 [EDIT]
「マチガイに気づいた方は、ふるってご指摘ください」とありましたので、さっそく史料を繰ってみました。清朝による「達頼喇嘛」号の剥奪♪
溥儀の(宣統2年正月)のは知ってましたが、1904年にもやってたのは、このエントリーを拝見して、はじめてしりました(最初みたときは、シラユキさんのマチガイ、ハケーン!と思ってしまいました)。溥儀のものと比べてみると、指示内容に具体性が乏しい(溥儀のは、「霊童」の選びなおしとかクジ引きのやり直しまで「命じ」てる)ように思いました♪
どれくらい、チベット人に対して実効性があったものなんでしょうか。

● コメントありがとうございます
シラユキ | URL | 2014/08/04(月) 18:43 [EDIT]
 文章がお若いのでまちがっている可能性もありますが、海野福寿先生であらせられましょうか。でありましたら光栄であります。
 本題にもどらせていただきますと(敬語になってるw)、清朝の決定はまったく実効的ではありませんでした。この時の駐蔵大臣オタイはダライラマを廃してパンチェンラマを代わりにつけようとしますが、ダライラマが後事をたくして国璽をわたしたガンデン大僧院の座主の実権はゆらぎませんでした。ていうかもしチベット史をしっていればパンチェンラマに代わりがつとまらないのは知っているわけですから、どれだけ清朝は内部事情にうとかったかということになります。
このあたりは『清末十三世達頼喇嘛档案史料選編』中国蔵学出版社あたりに詳しいです。

海野勇 | URL | 2014/08/04(月) 18:50 [EDIT]
すいません、海野勇(ペンネーム)です……OTL
福寿先生とはまったくの別人です。
だいぶまえ、施主と福田の壁画写真に「グシハンとソナムチュンペル」というキャプションをつけた年賀状をさしあげ、「これはサンゲギャンツォとダライハンよ」というご返信を頂戴しております。
● Re: こちらこそごめんなさい
白雪姫 | URL | 2014/08/06(水) 15:01 [EDIT]
いや、私も八十すぎて「ハケーン」はないかな~と思ったのですが、万が一を考えての対処でしたw。
 たぶん私はご本名をしっていますよね。しかし思い出せません。もし差し支えなければ こっそり教えて戴ければ。

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