白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2014/08/27(水)   CATEGORY: 未分類
ギュメ滞在記 (2)  怒濤の法話編
ギュメ滞在記パート2は、法話を抽出しました。視聴者は会社の社長さんとか教育者であったため、お話も勢い非常に一般向けでした。とくに、Q & Aは仏教を知らない人にでも非常に分かりやすくなっているので、ぜひご覧ください。

■8月14日 説者 密教学博士ロサンシェラプ 於 ギュメ本堂 ドルマラカン


 人はみな幸せになりたい、苦しみから逃れたいと思っている。その方法を説くのが仏教である。仏教を求める場合、その動機の大中小によって三種類の求道者が生まれる。

「小士」は輪廻の中での楽な生(天人とか人間でも金持ちとか美人とかの生)を得んがために仏教を求める人。
「中士」は、輪廻の中の生はしょうもないものと理解し、輪廻からの脱出を求める人。
「大士」は、あえてこの苦しい輪廻にとどまり、すべての衆生を救済するためにそのような力をもつ仏になろうと決意する人。

 つまりこの大中小は志しの大小によって分かれている。僧衣を着ているか俗人の服を着ているとか外見の違いではない。

 仏教を体と言葉と心を用いて実践する際、一番重要なのは体と言葉の行動の背景にある心である。仏教を志す動機が自分のためなら小乗になり、人のためなら大乗になる。体で五体投地をして、言葉でマントラを唱えて、仏教徒らしくしていても、動機がしょうもなかったら仏法とはいえない。

 体で行う実践も、言葉で行う実践もすべて動機によっているので、〔人のために仏を目指すという〕正しい動機が一番大切である。

 朝起きた瞬間今日一日をどうすごすか、寝る前に自分が一日をどう過ごしたのかを考えることが大切である。仕事のある人は朝から晩まで仏法できないと思っているだろうが、同じ仕事をしても人のために仕事を行えば仏法の実践になる。公私の行動を人の役にたつようにやる。それはひとりよがりなものではなく、相手の役にたつように、しかるべく行う(tshul zhin du byed pa)ことが大切だ。

・帰依のやり方

朝起きてまず、三宝(仏・法・僧)に帰依すること。三宝に帰依することが仏教徒であることを示す。
 まず帰依する対象をイメージすること。仏・菩薩がそこいら中にいると思って三宝に帰依しなさい。本当は仏の教えがインドに始まり、チベットの僧侶たちをへて今の自分の先生のところまでくる流れ (bla ma mchod pa) をイメージするのがいいのだが、それができない人はお釈迦様一体を仏菩薩の代理と思ってイメージするのでもいい。

 帰依には怖れと信心の二つが重要となる。

(1) 怖れについて
 みなさんが仏教徒であり、輪廻を信じているという前提で話すと(説明しよう。チベット仏教は無神論も含めてあらゆる宗教の人々に教えを説くので、仏教特有の概念を説かず、道徳として説明を行う場合もあるのだ。今回は我々仏教徒認定された)、
悪いことばかりをしていたら、来世、悪い生を得てしまう、怖いという気持ちをおこす。 来世動物に生まれてしまったら、かわいがられていると思っても、いずれ食べられてしまう。動物になると、人間界に戻ってくるのは難しい。

 戒律を守ることが人に生まれる基礎となる。戒律の中でももっとも粗なレベルの戒が十善戒(大乗仏教の基本的な戒)である。
 十善戒は身体で行う悪行三つ、言葉で行う悪行四つ、心で行う悪行三つをやらないことだ。

体で行う三つの悪行とは 殺生、偸盗、邪淫(邪なセックス = 僧侶の破戒とか、同性愛も含む)である。
言葉で行う四つの悪行とは、嘘、両舌、悪口、綺語(根拠のない馬鹿話)である。
心で行う三つの悪行とは、貪、嗔、邪見(間違った哲学)

この十の悪行を普段から行わないことが大事である。
仏教には我執を取り除き、智慧をえるために三学(戒 定 慧)がある。

(2) 信解について
信解とは、悪い境涯から逃れる手段は仏法僧の三宝しかないと確信すること。

・具体的な帰依のやり方

 ・ラマへ帰依
「師に帰依します」(bla ma la skyabs su mchi'O) を20回唱える。

 ・仏法僧のうちの仏への帰依
 眼前に仏像を観想している場合、そのお釈迦様から甘露水がでて自分の頭頂からはいって、今までなした悪い行いが尻の穴からでていき、体が水晶のように透明になったとイメージする。
「仏に帰依します。法に帰依します。僧に帰依します。」と三つにわけて帰依するとより功徳がある。
人々を救う手段(方便)と悟りの意識(智慧)を完成した人を仏と呼ぶ。仏さまは仏像ではなく、プドガラ(サンスクリット語で輪廻の主体を意味する言葉)である。それでもそこにいるとイメージすることはできる。

 ・仏法僧のうちの法への帰依
 四聖諦の中で、後半の二諦、滅諦(煩悩がなくなった状態)と道諦(それに至る方法)を法という。

 ・仏法僧のうちの僧への帰依
 この法を心で直感している人を聖者という。
 聖者に帰依するのがベストだが、現実にはなかなかいないので、戒律を守った僧の集団(僧伽)に帰依する。戒律を守った僧が最低四人集まったらそれを僧伽という。
 法を実践している理想の姿を示すのが僧である。

 医者と薬と看護師に喩えれば、お釈迦様は医者である。医者がこういう人にはこういう薬をだした方がいいというように、お釈迦様は人に合わせてさまざまな法を説く。従って、法は薬である。その患者を世話をして手本を示すのが、看護師たる僧伽である。
 薬があっても患者が酒飲んでいたら病気は治らない。教えを聞いても実践をしなかったら、心は変わっていかない。

・三宝に帰依するについて、なすべきことと・やってはならないこと。

どんな仏像であっても本当にそこに仏がいるものとして扱わねばならない。仏像の材質が木か金か、古いか新しいかによって態度が変わってはいけない。
 仏以外に帰依してはいけない。ギュメ僧院はダムチェンチューゲル (dam can)という護法尊がいていろいろお願をかなえてくれるが、このような俗的な願いを叶える神に帰依をしてはいけない。
 法に対する帰依をしたならば、人に対して敵意をもってはならない。仏教について少しでも書いてあるものは粗末に扱ってはならない。ましてや経典をおろそかにしてはならない。
 性格の悪い人と友達つきあいしてはならない。その影響をうけてしまう。
 僧侶の悪口を言わない。
 朝起きて30分でも、仏教徒の理想の姿を確認してそれに近づこうとする時間をもつ。

 仏教徒と自称していても仏法僧が何なのか分かっていない者はいっぱいいる。なので私は木曜日にここに住む一般の人を集めてこういう話をしています。 タワン地区(アルナチャル・プラデーシュ州)にいった時、そこのチベット人が「私は仏に帰依している」というので「仏ってなんだ」と聞いたら、みな答えられなかった。

 ではみなさんの質問を受けます。

・お楽しみ質問コーナー

Q「ラマがいない時は誰に帰依したらよいのでしょうか」
A 「なかなか難しい。ここで学んだことを反芻して徳を積みなさい」

Q「私は教育者です。こどもにうるさく説教すると反発します。しかることは良いことでしょうか」
A「徐々にゆっくり導くことです。仏教に様々な教えがあるのは、人の理解度は様々なので、それにあわせた法があるからです。相手が理解できる範囲を足がかりにしてゆっくり導くのがいいでしょう。

Q「聖者をどうしたら見分けることができるでしょうか。」
A「聖者は空の哲学の話をしたら、うれしくなって泣き出す人です。そういう人が聖者です」

※、10月8日にダラムサラ在住の中原さんのFBでダライラマ法王がダラムサラで台湾人を施主にして『中論』の講義を四日間にわたって行っていること、『中論』のテクストを掲げられて突然言葉をつまらされた、という目撃談を伝えられた。こういうことなのかと分かった。


Q 「私は医者です。医者は場合によっては患者を殺すこともあるけど、どうしたらいいか。」
A「ベストをつくしたなら、その結果患者が死んでも、悪業にはならない。」

Q「仏教では名声や金銭を求めるのは悪業ですが、イチロー選手のようになりたいと思うのは自分を高める糧になるのでいいことではないか。悪業になるならないの境界線はどこにあるのか。」
A 「なにごとも動機次第である。あなたが名声を得てその影響力をもって人の役に立ちたい、お金もちになって、そのお金で人の役に立ちたいというのなら、お金も名誉も自分のためにもとめていないので、問題ない。」

理事長「空性は光り輝いているものなのか。」
A「光明というのは比喩である。煩悩にまみれた意識はものごとのありようがみえていないので、暗黒にたとえられ、煩悩と所知障がなくなった意識は「ものごとのありようが空であること」を認識しているので、暗闇から光明の中にでたことに喩えられる。

理事長 「世の中すべて空なのだとしたら、悪業のありようも空となり、喩えると悪業も本質的には清いものなのか。」
A 「悪業のありようは清浄であるが、悪業自体は悪いものである」

Q 「畜生におちてもう一度人間になるためには、どうしたらいいか。」
A 「一ぺん、動物におちたら、良い境涯にあがるのはとても難しい。動物にはむさぼり・怒り・愚かさの三つの煩悩があっても、それが悪いと思う感覚がない。だから煩悩をただせず、動物の境涯からぬけることができない。良い境涯から悪い境涯におちる人はたくさんいるが、悪い境涯から良い境涯に行く人は本当に少ない。どのくらい少ないかといえば、世界中の土に対して一握りの土くらいの差である。」

Q「一生懸命やっても理解されない時はどうしたらいいのか。」
A 「人はいろいろ誤解していうだろうが、忍耐が大切だ。相手が悪口という悪業を積んでも、こちらが怒りという悪業を積むことはない」

Q「中絶について仏教はどう考えますか」
A「仏教的にはよくないでしょう。仏教を修行する能力をもつ人に生まれるのはとても稀なことで、その人に生まれるのをやめさせることはよいことではない。」

Q「障害児を産むことを選択しなかった親は、業から逃げられるのか」
A「業はなくなることはないので、一時逃げても、必ず後世に熟してくる」

Q「仏法を求めない人は救われないのか。」
A「他人の善業を回向されることによって救われる。人はどうせすぐ悪業つむのだから、善業を積んだ瞬間にすぐ人にあたえなさい(回向)、祈願しなさい。そうしたらあなたの善業は決してなくならない。回向と祈願の違いは、善行を根拠として祈るのが回向、善行なしにただ祈るのが祈願である。
 仏教について知ることは大切だが、それによってどれだけ心を成長させていけるかが大切である。美味しいものをただ見ていても、栄養にならない。食べて消化してはじめて栄養になる。同じように、仏法もただ見ていても仕方なく、心になじませて実践してはじめて力を発揮するのだ。


■8月15日 説者 ギュメ寺副管長 於 ギュメ本堂二階ドルマラカン

 法話を行う技量はないのですが、日頃感じていることをお話したいと思います。みなさんのお役にたてたら私も善業を積むことができます。本日から二日かけて、アティシャの菩提道灯論について説きたいと思います。全部の解説はできなくとも、ルン(ラマが行うテクストの音読を聞くことにより祝福されること)によって加持を受けることはできます。

 〔古代王朝が崩壊後の11世紀のチベットにおいて〕仏教は堕落の極みにあり、密教の第三灌頂はまんま。女性を用いて行われるなど風紀は紊乱していた。当時の王チャンチュブウーがそれを糾そうとしたが、誰も言うことを聞かなかったので、王はインドのヴィクラマシーラ大僧院の学頭アティシャをチベットへ招聘しようと決意した。ナクツォ翻訳官にこの件を頼むと「とても無理」といわれたものの王はナクツォに三礼し、ナクツォはそれに心を動かされて、とりあえずインドに交渉にいくことにした。当時ヴィクラマシーラ僧院の管長の名はギャナガラといい、ナクツォはこの人に金をたくさん布施して、ついに「アティシャは6年以内に必ずインドに戻す」という条件の下チベットに招聘する許可を戴いた。

 6年という期限もあるので、王はアティシャに「密教も顕教も関係なく、全仏教に役に立つ教えを一つといてくれ」と頼むと、アティシャは「この王様わかってるじゃん」と喜んで書いたのが、名著『菩提道灯論』(lam sgron)。

 ※ ここにマリア・リンチェンさんの和訳があります。

 アティシャをインドに返さねばならない時がきたものの、インドとチベットの国境で戦争がおこり道路は不通になった。そこで、代わりに、アティシャの記した『菩提道灯論』をヴィクラマシーラにおくった。当時の風習では、学僧たちがくだらんと判断した著作は犬の首につけて町におくりこまれ「こんなものを書いたヤツはアホ」とさらしものにされた。しかし、『菩提道灯論』は素晴らしかったので、ヴィクラマシーラの管長は「こんな短期間にこんな良い作品ができるのならアティシャがチベットに行った意味はある。この『菩提道灯論』を解説する注釈書を書いて送れ」と言って、チベット滞在を許可したのであった。

 今から、衆生が苦しみから逃れられるように、私は説法する。聞く方もそう思って聞きなさい。菩提心を起こすことは難しいが、まねごとをするだけでも大したものだ。そう思うだけで菩提心のもっている功徳によって計り知れない力が生まれる。
 
 今日私が行うことが有情の役にたつ原因となりますように。そうして一日の活動を始めるように。日常が始まると、つい朝の気持ちを忘れてしまうが、その影響力は残る。最近はなんでもアウトソーシングして人にまかせるが、自分の心はアウトソーシングして治してもらうことはできない。自分で自分の心を分析して、どうしたら自分の心が成長するのかを知らなくては心は伸ばせない。

 美味しいご飯の作り方知っていても食べなければ栄養にならない。心の整え方を知っていても実践しなければ、肥やしにもならない。慢心、嫉妬心、競争心と煩悩の数は八万四千もある。シャーンティデーヴァは「僧侶でも慢心はある。お経をたくさん知っていてもそれだけではいけない」とおっしゃっている。
 チャンドラキールティは『入中論』の中で 怒りという煩悩一つとっても、怒りの報いによって、悪い生を得たり、汚い顔に生まれたり、悪い環境にであったりすると述べている。そう、怒ることによって、自分もつらいし、家族もつらいし、友も去っていくし、一つもいいことはない。」
 大切なのは怒りの対治である忍耐である。夫が会社でいろいろ我慢して、家で爆発してモノを壊したりした時、奥さんが黙って後片付けをしていれば、夫も悪いことをしたと反省して最後は謝ることになる。しかし、ここで奥さんも怒ってものをなげたら、収拾がつかなくなるだろう? シャーンティデーヴァは『入菩提行論』(※本書はポタラカレッジで和訳が買えます)の中で「長い間積んだ徳も一瞬の怒りがやきつくす」と述べている。
 怒り続けていれば簡単に怒りやすくなるし、忍耐を続けていればいずれ忍耐強い性格になる。私は1959年当時非常に怒りやすかったものの、これはいかんと思って訓練しているうちに、忍耐強い性格になった。
 人は自分よりできる人をうらやみ、対等な人には競争心を持ち、目下は軽蔑しがちだが、これはおかしい。菩提心を誓ったのなら、全ての衆生を慈しまねばならないのだから、「この人が好きとか、この人が嫌い」などと言うことはなくなるはずだ。

 西洋人も東洋人も金持ちになれば幸せになれると基本は思っている。

 しかし、金持ちでも心の苦しみはすごい。ヨーロッパにいると「瞑想のやり方を教えてくれ」と言われるが、瞑想だけで心の苦しみが簡単に克服できるなら苦労はない。しかし、最近のヨーロッパ人は「心のありようを知って変えなければ、苦しみはなくならない」と気づき始めた。仏教は非常に奥深く広大なもので目先の日常生活にも覚りについても有益な教えを説いている。その通りに実践したらその境地に至ることのできるものなのだ
 だから、仏の境地に至ろうと思わなければならない。お釈迦様以外覚りの境地に至ることはできないなどということはない。お釈迦様も人間である。人種を問わず仏法を実践していけば、時間はかかれども仏の境地に至ることはできる。

 以下、『菩提道灯論』を音読しながらの解説。
 師を間違いなく選ぶこと。分かるまで教えを請うこと。『菩提道次第論』の中にでてくるエピソードに、ドローパと学僧の二人が法を説いていると、弟子は「ドローパの言葉は心を揺るがすのに、学僧の言葉はそうではない。どうしてか」というと、前者は修行をしているが、後者はただ法を知っているだけで実践をしていないので、説く言葉に説得力がないのだ。というものがある。
 修行をしていない人は、人の心に届く言葉は語れない。だから、ドローパのように説得力のある、人の心を揺るがすような言葉を話す人を師にしなさい。
 心を育てることを妨げる人とは距離を置きなさい。
 今若くて仕事が忙しいからもう少し後になって仏法を実践しようというのはいかん。すぐに年寄りになって死んでしまう。自分の心をみつめることは今すぐ今日この時点からできることだ。
 空を思いなさい。すべては自分の心がそれに名前をつけて、あるように見えているだけである。あるのは名のみである。キリスト教では造物主が全てであり、良いこと悪いことも神の御技だが、仏教では我々の心が証人である。この人は信じて良い人かどうか、これをやって良いかどうかは自分が一番わかっているはずだ。
 良い師につき、その言葉どおりに実践すれば短い時間で結果を出すことができる。「仏法の修行をしていたら仕事ができなくて食べられなくなります」ではない。仏法としっかり向合えば、必ず食べることができる。

 「足るを知る心」が大切である。

 執着はこれが手に入ったら次はこれときりがない。慢心もきりがない。しかし、雨は山の頂上にはたまらず、麓にたまる。謙虚な心をもたないと、力はもてない。経済的に豊かになることはいいが、その金に執着をしたらあかん。
 他人の賞賛を求めてはならない。賞賛なんて道ばたの石のようなものだ。つまづいてころぶだけだからどけなさい。私のことを「あいつイタリアいってたりして、大したことない」とか言うヤツはいるだろう。言いたいやつにはいわせておけばいい。ほめられて喜んで、けなされて腹を立てるなんて、心が揺れすぎだ。こだわるな。名声も金も死んだら全部置いて行かねばならないものだ。

 今生は生きてもせいぜい百歳だ。そのあとの転生の方がはるかに長い。だから、金を得たら、ただちに貧しいものに施しなさい、仏法に供養すればこれは宝を埋めているのと同じである(来世に掘り出せるということだな)。

8月16日  副館長講話 第二部 於 ギュメ僧院本堂 二階・ドルマ・ラカン

 大乗の帰依はすべての命あるものを苦しみから逃れさせるために三宝に帰依するといいます。この帰依こそが、非仏教徒と仏教徒を分けるものである。まず、悪いことを行えば悪い境涯に落ちるという恐怖があって、その苦しみから逃れる力が仏法にあるという信解この二つによって帰依をしなさい。
 自分が苦しんでいる時に、有力者が助けましょうかといってくれば、嬉しいだろう。そのように仏法が助けてくれる、という確信をもって帰依をすること。

 行苦とは「無常であること」「業と煩悩の力に牛耳られていること」から起きる苦である。
 仕事が見つからない。仕事が思い通りにいかない時は、私とか法王様とか、帰依する対象を思い浮かべて、「助けて下さい」と心で話をしてみなさい。苦しみに対する恐怖とそれを救って頂ける確信をもって話しかけてみなさい。

 私はカトリックの国イタリアに18年滞在したが、イタリア人は仏教が大好きだ。小さいことから大きいことまでよく電話をかけて助けを求めてくる。「仕事で大失敗した」という人にターラー尊のマントラを授けて、ターラー尊に助けを求めなさい、と言うと、しばらくすると「うまくいきました」という報告が入ることがよくある。力になって下さることを疑ってはならない。

 ターラーは観世音菩薩の前で「観音を信心する人の力になります」と誓ったのだから、救ってくださると疑いをもってはいけない。業と煩悩に牛耳られているのだから、苦しみが起きることは当たり前なのだ。しかし、苦しみがずっと続くこともない。
 
 種を引き出しにいれていても芽は出ない。土にまいて水をあげてはじめて芽が出る。我々はいやなことがあったときに宝の蔵にであったように喜ばねばならない。身に覚えがないのに、悪いことがおきるのは、前世の我々の悪業の報いだ。だから、いやなことがあれば「前世から自分がかついできた悪業がこれで浄化する。これによってすべての悪業がすべて解消するよかったな」と思うことだ。これは業をおとす最高の方法と言われている。

 このツライ経験によって今までの全ての悪業が解消出来ると考えて、安心感を得られたら、 『秘密集会タントラ』の生起次第第一加行道と最勝マンダラ王の修行を完成したのと等しく効果が得られる。他のタントラにもいろいろな功徳があることが説かれている。

自分が苦しい時に、敵の悪業もこの苦しみによって解消すると考えねばならない。
敵がひどいめにあってざまあみろとか思ってはいけない。あなたが敵を許したら、敵はほっといてもあなたへのイヤガラセをやめるようになる。あなたの心も楽になる。

怒りに身をまかせた人がいたら、排除するのではなく、慈しみの気持ちをもちなさい。徳がない人にも慈しみの気持ちをもちなさい。軽蔑したり悪口いうてはいけません。

 友に執着し、敵を排除するというのは結局は執着や怒りで心のバランスを崩すことになる。シャーンティデーヴァに「敵に悪いことがあっても、あなたがああよかったと思うても、実はあなたに何もいいことはない。人が良いことをしたらそれを嫉妬せずに喜べば瞬時に善行がつめるが、人がひどいめにあって喜ぶと、同様に瞬時に悪業を積むことになる。

 人を嫉妬してはいけない。その反対の「人を敬う気持ち」は、その尊敬の対象にいたる道となる。しかし、嫉妬はそこへ至る道はない。

 あいつはここがダメだと非難するのではなく(比丘の戒律に他人の悪口をいうながある)、自分の欠点を自分で認識しなさい。他人に召し使いのようにつかえなさい。
 相手が欠点をなおすようにと諭すのはいいことだ。ただし軽蔑しながらいってはいけない。
 この世の中の命あるものは始まりのない昔から無限回の輪廻を繰り返しているうち、かつては父であり母であったものたちである。あらゆる生き物に対して慈悲で接しなければいけない。日本人は暗いぞ。イタリア人は毎日おもしろがって生きている。
 馬鹿話をしたり、ナショナリスティスティックな話をしていると煩悩が刺激される。善業の原因とならない話は減らしていこう。

 悪い結果しかでないことを一生懸命やってはならない。
 聖者の喜ばないような業を積むことは死ぬことと同じである。
 いやなことがあっても、「アイツがいなければ」思ってはならない。そんなしょうもないやつもあなたの業と縁でそこにあるのだ。
 良いことがあったら、それを喜ばなければならない。まずは自分の心を整えた後に他人を諭すようにしよう。自分に境地がないのに人を説得することはできない。まず心の境地を高めてから人に説教しよう。

 本当に他人の役に立つことを言おうとすれば他心力(テレパシー)が必要だ。それを得るには修行をしなければならない。
 十善戒をまもれば来世はうまくいく。ちょっとでも時間があったら法の実践を行いなさい。あとに回していたら、すぐに年寄りになって死んでしまう。前世とか業とかないとか思って修行していても、効果はでない。自分の心を証人にして自分の心を分析しながら修行をしなさい。

 私の言う通りに仏法を実践すれば、私も幸せあなたも幸せになる。今年百才になるガンデン座主の生まれ変わりセラ大僧院のメー学堂のタクパリンポチェ (GRAGS PA RIN PO CHE)が最初に私にこの『菩提道灯論』を授けてくれた。
タクパリンポチェは山に住む行者からこの書の口伝をうけた。

お釈迦様は間違いなく信頼にたる人。仏教をたった一部であれ実践したら、仏教徒でなくとも功徳はある。あなたがたが密教を含めたお釈迦様の教えに出会えたのは得難い幸せである。

イタリアの神父さんがチベットに布教に行ったところ、うまくいかずこういっていた。「チベット人は頭が固くて、お釈迦様の悪口をいうとみな怒り出す。日本人も同じだ。しかし、中国人と韓国人は容易にキリスト教に改宗する」と。

 ヨーロッパ人でも、ディヴィッド・ニールというフランス人女性がかつてキリスト教を布教しようとラサに行ったところ、かえってチベット仏教の虜になり、帰国した後、チベットについて展覧会を開きチベットが独立国であることを広くフランス人に伝えてくれた(※ 平凡社東洋文庫『パリジェンヌのラサ旅行』)。
 あなたたちの仏教の信仰を大切にしなさい。

Q「病にかかった時、どのように考えれば良いのでしょうか。」
A「トンレン(すてる・受け取るという意味)という修行があります。トン=捨てるで「この病気によって自分の悪業を解消するように」と思い、レン=受け取るで「この病気によって他人がうけるはずであった苦しみを代わりに受けますように」と祈るといい。このトンレンはハンセン病の仏法という通称がある。ある僧がハンセン病にかかり、この病は伝染性なので、僧院からだされて山の中の洞窟で人々の施しをたよりに暮らしていた。この僧は毎日トンレンの修行をしているうちにハンセン病治ったという。だからトンレンの行はハンセン病の法と言われている。

Q「死期の迫った患者さんにあなたは死ぬということを告げる時、どのように伝えればいいでしょうか。」
A 「難しい。ベストを尽くしたことを伝えることだ。死を意識して残りの時間を過ごすことが出来るから。死ぬこと自体は伝えなければいけない。」

Q「友達の女性が、私は母親を愛せない。自分は母親とそっくりなので、自分も愛せない。そのため対人関係がうまくいかないといっているどうすればいいか」
A「どんなお母さんであっても、お母さんの恩を思わねばならない。お母さんが無防備な赤ちゃんの頃世話してくれなければその人は大人に育つことはできなかった。愛情が亡ければ赤ちゃんは育たない」

8月17日 説者 ギュメ管長先生 於 管長僧坊

Q 「私は医者です。患者に死期を告げなければいけない時、どのようにつげればいいか」
A 「難しいな。仏教徒なら良い来世があると言うこともできるが、そうでなければいっても仕方ないし。良い心の状態(周りや人生に感謝して)で死ぬことが大切なので、その人が安らげるようにしてあげなさい。

Q 「私は教師です。勉強のやる気のない子に、やる気をださせるにはどうしたらいいですか」
A 「手を上げるのはよくない。子供にもいろいろタイプがあり、叱ると伸びる子もいれば、褒めるとのびる子もいる。タイプを見極めて導きなさい。また、将来の目標がはっきりしていると勉強はモチベーションがあがる。カリンポンでは英語ができたら給料を上げるといったらみな勉強した(笑)。」

Q 「犯罪で家族を失ったら、それでも犯罪者を許さねばなりませんか」
A 「犯人は監獄にいれてどつかなあかん。(笑)これは冗談だが、反省させることは大切だ。被害者家族が仏教徒であれば、なくなった家族のために善業をつむ、たとえ遺産を寄付したりすると、その善行が死者に回向される。」

Q 「僕は募金をよくするのですが、それに満足している自分が偽善ぽく感じてイヤなのですが」
A 「寄付も募金も慢心をおこさなければいい。しかし、慢心が起きてしまっても、募金をやめるよりはやった方がいい。寄付が善業であることには変わりないから。募金を毎日すればその行為になれて慢心もおきなくなるだろう。」

 
副館長講話 於 副管長僧坊

Q 「恵まれた環境を当たり前と思っている子に、それが恵まれていると思わせるにはどうしたらいいでしょうか」
A 「今の子は恵まれていてもそれに感謝せず、当然の権利だと思うのだな。良い子に育つように良い話をなさい。経済的に豊かになる方法ではなく、心が豊かになることを教えなさい。しかし、教える方も説得力をもつように心を整えておかねばなるまいよ」。

※ 予定としては、灌頂編とインタビュー編とお笑い編が続きます。
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COMMENT

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s | URL | 2014/08/29(金) 12:49 [EDIT]
理事長の質問はとても勉強になりました!ありがとうございます。
〉理事長「空性は光り輝いているものなのか。」
A「光明というのは比喩である。煩
悩にまみれた意識はものごとのあり
ようがみえていないので、暗黒にた
とえられ、煩悩と所知障がなくなっ
た意識は「ものごとのありようが空
であること」を認識しているので、
暗闇から光明の中にでたことに喩え
られるインドで勉強出来ないので、とても勉強になりました。
上記の質問でとても心の違いが解り
癒されました。
私は臨死体験して光の中ににいた記憶があります。
臨死数年前光って見えないとお客様に指摘されていました。私は整体師
でした。私の前で不幸がなくなるよ
うにとはじめた仕事です。
光という概念は光る人が作った概念
なのかなと、凡人の私にも解るような解説にチベット仏教の直感で解るというラマの素晴らしさを知りました。
臨死体験後に整体師を辞めましたが、光明に出会い不幸がなくなりいつも幸せになりました。
チベット仏教は素敵ですね、今はチベット仏教に帰依しランジと名前をいただきました(^-^)

シラユキ | URL | 2014/08/31(日) 08:03 [EDIT]
>ランジさん
ランジはチベット語でどう綴るのかわかりませんが、チベット仏教を勉強されているとのこと、もしこのページが多少なりともお役にたてるならうれしいことです。書記としてのつとめを果たしたことなになります。これからもご覧いただければと思います。

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