白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2015/03/17(火)   CATEGORY: 未分類
雪女、富山を行く (前) 寺本婉雅ゆかりの城端へ
新著 『チベット伝統医学の薬材研究』の第三章で扱った医学写本は寺本婉雅によって明治時代雍和宮からもたらされたものであり、現在は富山の宗林寺に所蔵されている。今回は同寺に御礼を申し上げ、東洋の伝統医学の研究で名高い富山大学の小松かつ子先生と伏見裕利先生に拙著を献呈するため富山にいってきました。長くなるので前後にきってお送りします。
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 富山入った3月10日はよりにもよって三月には珍しい低気圧が北陸上空にかかりサイアクの天候。羽田からの飛行機は「悪天候のために羽田まで戻る場合がございます」と何度もアナウンス (聞いたところでは富山空港は有視界飛行とな)。富山につき空港バスでまず高岡までいく。寿司屋の大将から聞いた話では、富山市の西側にある呉羽山という丘をはさんで富山の文化は金沢文化圏?(武家文化)と富山文化圏?(農村文化)に分かれるという。従って、高岡と城端は富山にありながらも気持ち的には金沢に近いらしい。そのせいかどうか知らんが、高岡と城端の観光大使はゆるキャラではなく、大正期の袴姿のアニメの萌えキャラである(え? 関係ない?)。

 宗林寺訪問は常識的な14:00に設定してあったので、その前は観光をする。というか、高岡駅で城端線に乗り換えようとすると、乗り換え時間が1時間半あったので、せざるを得ない(笑)。高岡駅から徒歩10分の瑞龍寺(前田家の菩提寺)があるので、雪の中とぼとぼと寺まで歩く。瑞龍寺は三大禅堂と称えられる荘厳な伽藍で、国宝の立派な禅堂もあるのに、聞けば修業者ゼロ。ザ・観光地。大雪の中朝一に現れた私に受け付けの人は優しかったので、これはご時世ということにしておく。
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 高岡から城端線にのると、終点城端に近づくにつれ山に近づくため車窓は白く変わって行く。「合掌集落につく頃はいい感じに雪景色にかわっているな」などとこの時はのんきなことを考えていた。終点城端駅に降りるとあたりはすっかり雪景色である。

 しかし駅前からでるはずの相倉集落行きのバスが来ない。しばらくすると駅の関係者が「北陸新幹線開通に伴うダイヤ改正で今日から05分のバスはなくて55分まで来ません。気づくの遅くてすみませんね」とのこと。ちょっと待て私が時刻表をHPで確認したのは一昨日くらいだぞ。ちゃんとアップデートしろ。集落ではガイドさんがまっているのに50分も待たせるわけにいかん。

 仕方ないので駅前にある唯一のタクシー会社に向かうも、折からの雪で三台しかない車は出払っており、四輪駆動とスノータイヤでうっている五箇山タクシーも車の調子がわるくこれないと。車の運転ができない観光客はこうなると地縛霊である。仕方ないのでタクシーがどこぞから戻ってくるのを30分まち、予定時間を大幅にこえてタクシーで出発する。

運転手さん「この雪ほんとに先ほどから降り出したのに、もうこんなに積もっているんですよ。この先、富士山の高さと同じ長さのトンネルがありますが、それを越えるとまたひと味違いますよ」

「トンネルを越えるとそこは雪国だった、と言いますが、すでに雪国なので、ドカ雪国ってことですか?」

運転手さん「そうです」

 そしてトンネルをぬけると・・・。確かにすごい。除雪車がよけた雪が両側に壁になり、ちょっとした立山アルペンルートになっている。

 そして集落の入り口にくると、運転手さんは、「ちょっとすみません。この車では集落の駐車場まで上れません」という。ガイドの山崎さんには車でつくと直前にいってあったので待っているだろう。大した距離ではないからと私はタクシーをおりて、ずぶずぶと集落に向かう登りを急いだ。

 雪と風ははんぱなくふきつけてきて、あっというまに雪まみれ。荷物もって傘をさしているので雪がはらえず、雪女状態で、観光バスのわだちをたどりながら雪中行軍。八甲田山ネタが頭によぎったが不謹慎なのでやめておく。
相倉

 駐車場でやっとガイドの山崎さんと合流して、ご挨拶。100円で長靴と傘を貸してくれるというので、はきかえると、山崎さんはびしょびしょの私のスニーカーを詰め所のストーブの側においてほしてくれた。長靴はガードをあげるとヒザまで隠れるのでずぶずぶオッケー!

山崎さん「昔の農家はみな藁葺きだったんですよ。それがたまたまここは早くから保存が進んで世界遺産になって。その頃は世界遺産のありがたみなんて分からなかったから、こんな小さなくす玉割ってちょっとお祝いしてすぐに家に帰りました」

「大きな田んぼもつくれないこんな山の中で何を生業にしていたのですか」

山崎さん「加賀藩の流刑人を世話したり、火縄銃の弾に使う硝石を生産していました。流刑人とはいえお侍さんななので学があって、ここの集落の人はみな囚人から文字や学問をならっていました。」

 山崎さんは本業が写真屋さんなので新旧の写真をもって近代にはいってからの相倉の歴史をお話してくださる。ちなみに、大雪なので外歩きは簡単にあきらめて合掌作りの2階で集落を見渡しながらの説明であった。
 山崎さんのおばさんは例のトンネルの入り口の人と結婚して、東京にでて夫婦で土建屋を手広くやっていて、この集落の上の世代はその会社につとめていた人が多く、集落はゆたかになったという。
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山崎さん「しかし、その会社も東京大空襲で焼けて従兄弟はみな無くなりました。70年前の今日です」

 たしかにそうだ。今日は東京大空襲の日だ。チベット蜂起記念日も今日ですよ、と言おうかと思ったけど、説明が長くなりそうなのでやめる。代わりに新刊の医学本をおみせして富山にきた理由を説明する。山崎さんは「柳田国男もそうだし、ここは多くの研究者が通り過ぎてきた」と感慨深げにいう。柳田国男に並べられてなんかカンゲキ。

 こうして相倉合掌集落を後にすると、タクシーで城端の宗林寺まで送って頂く。行きのタクシーは駐車場まで行けないとのことだったが、帰りはちゃんと上がってきていた。

宗林寺の現住職の桂恵子師は寺本婉雅とその養子である昌雄氏のお話をいろいろしてくださった。詳細は拙著の後書きとかをご覧頂くとして、簡単にいうと、ここ城端にはかつて寺本婉雅を顕彰する「黙働会」があった。そこの中心となって動いていたのがここ宗林寺の桂香厳ご住職(現住職恵子師の祖父)である。その縁で寺本婉雅が宗林寺に出入りする内、桂香厳師の次男の昌雄氏の英明さに目をとめ、養子にとって家督を継がせた。その関係で寺本婉雅の死後、令室がたびたびここを訪れ、彼の遺品の一部が宗林寺に伝えられたのである。

 宗林寺の蔵にあった寺本婉雅の遺品は昌雄氏と黙働会のもので、いろいろ散逸したあとの残りである (今は大谷大学に貸し出されている)。お寺には当時の栄華?を伝える黙働会のインド人のコスプレ写真とかがある。恵子師に富山で一番大きな地方紙はどこかと伺うと、北日本新聞社である、というので、富山についたら直接訪れることとする。

 城端から富山市まではJRを乗り継いだが、今度の乗り継ぎは夕方なので比較的スムーズであった。富山駅は新幹線の開業を14日に控えて町中が総出で盛大な前夜祭をやっていた。仮駅舎の前にたつ仮設の特選街では店のご主人が、「はいっここでスタン張っていてください」とか言われて直立しているし、至る所にテレビカメラがはいっている。ここまでくる線路添いにも、新幹線の導入とともに消えていく列車を記録するため、雪をかぶった鉄たちが三脚立てて写真撮影をしていた。工事中なので仮設駅の出入り口がおおきく動いていたため、路面電車にのるには、大雪の中あるいてかなり遠くのビルの麓に行かねばならない。傘をさして荷物もって雪まみれになりながらとぼとぼ歩く。雪ふりすぎ。

 こんなんじゃ北日本新聞社いっても相手にされないだろうなと思いつつ、せっかくきたので「きちゃった」のノリで一応よってみる。受付で名刺をわたすと意外にスムーズにつないでくれ、上にあがると、ひろーいフロアは記者が出払っていてガラーンとしている。対応してくださった偉い方は、「ご覧の通り、いま北陸新幹線の開業関連で記者は出払っており、大手マスコミも全国から集まっています。郷土の偉人については私たちも興味がありますので四月中頃くらいの感じで」とぺつに急ぐ話しでないので、きた甲斐があったこととする(後篇へと続く)。
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