白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2015/03/29(日)   CATEGORY: 未分類
元寇遺蹟と近代ナショナリズム
下関と博多に、新旧ナショナリズム遺構をみにいった。旧ナショナリズムは元寇の際もりあがった敵国降伏のナショナリズム、新ナショナリズムは幕末からWW2の敗戦に至るまで、対清・ロシア・米英の順にもりあがったアレである(笑)。この二つの出来事は、実は元寇の記憶をもつ博多で時代をこえて一体となっている。
 
 3月19日、前の飛行機がバードストライクで止まっているとかで滑走路が短時間閉鎖され、遅れて離陸。 犠牲になったお鳥様に手を合わせつつ博多に近づくと、今度は別の飛行機が部品を滑走路におとしたとかで、またまた空港閉鎖。ベタ遅れで到着。

 ついてすぐ下関に向かおうとするも新幹線の表示板をみてびっくり。新下関にとまる「こだま」は一時間に一本しかねえ。仕方ないから「のぞみ」で小倉までいって、そのあと在来線で下関まで行くことにする。こうやっていろいろあっても富山で感じたアウエイ感はない。母の父は北九州の寒田の出で、母は小倉で育ったので私は東京生まれの東京育ちとはいえ、DNAの半分はメイドイン九州であり、祖父が生きていた頃は何度も九州に来ているので、何となく安心感がある。

 下関につき、T先生と唐戸市場で昼食をとり、そのあと関門海峡鎮守の亀山八幡宮で伊藤博文が奧さんとしりあった場所とか、攘夷の砲台跡とかを見て(ここに砲台ができたのは神様の力添えを期待してだろうな)、そこから歩いてすぐの、下関講和条約の舞台となった春帆樓へ行く。春帆樓は今も営業を続けているが、条約の結ばれた建物はすでに建て替えられており、代わりに条約の席を再現した間が記念館内に作られている。
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 中から大量の本土中国人の観光客が観光を終えてでてくる。
 
S大学のT先生「この資料館、奥行きないんですけど、よくこんなたくさんの人が入ってましたね」

私「自分たちの国が負けて不平等条約を結ばされたこの場所で、どんな解説をされて、何を言い合っているのかが興味深いですね。想像つくけど。」

 このあと、旅館に隣接する赤間神宮へ。ここはあの耳無し芳一の怪談で有名な寺。

T先生「ここの境内にある大連神社をご存じですか。日露戦争後に、満洲の玄関口大連に総氏神として祀られた熱田神宮のご神体を、敗戦とともにここに移したものです。ここには満州国の資料がたくさん所蔵されていて一橋大学の学生さんたちが整理にあたっています」

 本殿の横には終戦の月の25日に天皇陛下にわびるために自決した大東塾の塾生14名(大東塾十四烈士)の霊が祀られている。 幕末に欧米諸国の船に大砲をぶっぱなしたり、尊皇攘夷もりあげたり、下関には排外ナショナリズムのかほりが横溢している。

 排外といえば下関名物、長周新聞に触れねばなるまい。この時丁度、同紙は市長の学位請求スキャンダルを糾弾していた。この件は確かに市長の行動に非があったが、それを糾弾する新聞の口調がなんとも文革的というか、知的でない。調べてみると、この新聞社、中国に従って日本共産党を除名された福田正義が1955年に設立したものであった。
サイトにある福田正義が書いた「偏っているか」を声にだして読んで見たら、中国がチベットを「平和解放」した時の共産党の宣言文を思い出した。反米、反帝国主義、愛国の論理と口調が全く同じ。一見の価値があるのでこのサイトで確認してみて。 内容の是非についてはご自身の価値観で。21世紀になっても毛沢東主義を奉じているとは、インド・ネパールのマオイストのよう。その後、T先生の研究室で学術情報を交換して、夜は小倉の親戚の家に泊まる。

 明けて20日は博多に移動し、元寇遺構と元寇にかこつけた近代ナショナリズムを調査する。

 日本は島国であったため、他のアジア諸国と比べて、外国人の襲来にさらされることはなかった。しかし、例外として13世紀にフビライ・ハン時代のモンゴル(元)に二度にわたり攻め込まれている(元寇)。これは日本人のトラウマとなり、19世紀に関門海峡に近代的な兵器を備えた外国の艦船がうろつきだすと、外国侵略の恐怖とともに元寇の記憶が再び呼び醒まされた。
 
 かつてモンゴルの脅威を退けた「神風」(台風ともいう)が吹いたように、今目の前にある危機も神仏の助けによってのりこえようという気運が幕末に生まれ、その中で北条時宗の時代を追慕し、元寇遺蹟を整備する動きが日本中に広がった。

 藤田東湖を初めとする幕末の志士たちが「正気の歌」を読んでいるが、同名の歌は南宋の遺臣文天祥が、フビライの仕官の誘いを断り、前王朝に殉じて獄死する際に詠んだものである。幕末の志士たちは、自らを宋王朝の遺臣の漢人に、欧米をフビライ・ハン率いるモンゴルになぞらえていた。

 さらに明治に入ると日蓮主義がもりあがる。

 日蓮と元寇の関わりを雑に紹介するとこんな感じ。フビライ・ハンが王位に即位した1260年、日蓮は時の執権に、『立正安国論』を献じ「このような不穏な出来事(地震・水害・飢饉)が続くのは、幕府が法華経を信じずに邪教(念仏宗)を信じているからである。このままだと外国軍が日本を滅ぼすぞ」と説いた。

 1274年、1281年、二度にわたりモンゴル軍が博多湾に攻め込み、残虐の限りを尽くしたため、日蓮の言葉は成就したかに見えた。このうち、二度目のモンゴル来寇は結構本格的で、日本に死亡フラグがたった。にも関わらず、幕府は各地の御家人によびかけて海岸線に防塁を築き果敢に戦い、さらに運良く来合わせた台風で多くの元・高麗の船が沈んだため、勝ってもうた。
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 この故事にちなみ、日蓮の思想を奉じれば、外国侵略ははねかえせると信じた日蓮主義者たちは、国柱会などのナショナリスティックな政治団体に集い、石原莞爾などが満州でブイブイいったことは有名である。元寇の記憶の残る博多の地はとくに1904年から20年にかけて、元寇遺蹟の整備・顕彰・慰霊が進んだ。つまり、江戸時代にはとくに注目されていなかった元寇遺蹟が、近代に入ってからの排外ナショナリズムの勃興とともに注目されたのである。

 近代に入ってからの元寇時代追慕のもっとも興味深い例は、1904年に福岡県庁の前に建立された、日蓮像と亀山上皇像であろう。私事になるが前にここに来たのは、十代のはじめ頃であった。神風に袖を翻す巨大な日蓮像を見て圧倒され、像の足下にある銅版画にモンゴル軍の非道(捕虜の手のひらに穴をあけて紐を通している)が刻まれているのを見て「蒙古こわあい」と思ったものだ。
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 その後すっかり忘れて大学に入ってモンゴルゼミとかに入ったところを見ると、あの時感じた怖さは現実のモンゴルに対してではなく、「外国からやってくる話の通じない暴力」に対してだったのであろう。

 日蓮像護持協会が運営する元寇史料館から、これらの像の建立の経緯を引用すると以下のようである。

 記念碑建設の起こりは、二年前(1886) の八月に起こった"長崎清国水兵事件"によるものである。その事件とは、定遠を旗艦とする清国北洋艦隊が長崎に寄港した際に、上陸した水兵等が酒に酔い大暴れ、鎮めようとした巡査・市民など多数を死傷させ、家屋を破壊し、そのまま出港してしまった。この清国水兵による惨害の補償は、当時の国力の差から日本の無き寝入り同然の結果となり、人々は国辱だとくやしがった。この事件を担当した湯地丈雄は、再びこのような屈辱があってはならないと胸にきざみこんでいた。その後、福岡警察署長に着任した湯地丈雄は、元寇の地、博多に国難殉死者の慰霊碑が一つもないことから、再び外国からの辱めを受けないための精神的象徴として元寇記念碑を建設することを思い立った。

 この長崎事件における清國水兵の破壊・暴力 → 弁償しないで逃走 → 日本人大怒り の構図は、なんか現代の中国での反日デモにも通じて、つくづく中国は進歩ない。

 で、この福岡警察署長、湯地さんの提案に、日管(日蓮本仏寺住職)が協力を申し出て、碑文は、北条時宗像に日蓮の肖像をはめこむデザインでいこうとしたら、仏教各派から猛烈な反対がでた。日蓮は他宗派を強烈に批判した人だし、蒙古降伏は他宗派だってさんざん祈っていたのだから当然であろう。

 で、この反対を契機に日蓮宗は湯地と袂を分かち、湯地さんは亀山上皇像を、日蓮宗は単独で日蓮銅像の建設にとりかかった。制作監督は両方とも芸大の前身の東京美術学校。警察署長が発起人になり、県庁前という立地、奈良の大仏・鎌倉大仏につぐ巨大さなど全てから、このプロジェクトが公的な性格を持ち、当時の人々の気持ちを広く代弁していたことが分かるであろう。

 亀山上皇・日蓮聖人の両像はともに1904年に完成した。チベットの都ラサにイギリスのヤングハズバンドが侵攻し、奇しくもダライラマがモンゴルへ亡命した年である。像の建設期間には日清戦争があったため、資料館には撃沈した清の艦船からひきあげた品も展示されている。像が完成した1904年は東郷平八郎がバルチック艦隊を殲滅した年なのでこの像には一際神秘的な箔がついたことであろう。

 資料館には東郷平八郎、乃木希典肖像が祀られ、日本初のパノラマ画家Issho Yada(矢田一嘯 1859-1913)の代表作『元寇戦闘絵図』など、も所蔵されている。この収蔵品からも「神風」は、昔の話ではなく、眼前にある外国の脅威に対抗するための、切実な切り札、最低でも心の安定剤として作用していたことは明らかである。しかし、この神頼みの精神論が日本にああいう惨禍をもたらしたわけだから、やはり戦略とか戦術とか軍備とか戦の正当性とかを客観的に省察する心は重要である。

 ※ここで豆知識。元寇史料館は観光サイトでみると土日開館、平日閉館であるが、直接聞いたところでは、土日はしまり、平日は予約すれば開けてくださるとのことである。全く逆なので気をつけよう。

 夕方、ホテルで温泉からあがってテレビをつけると、今日が福岡県西方沖地震から十周年であると連呼している。十年前壊滅的被害をうけた玄海島は現在は復興し、ヘリポートが建設されている。テレビを見ていると、ゼミの卒業生で、今博多で仕事をしているTくんから電話。Tくんは同じくゼミの卒業生で博多勤務のHちゃんと月いちごはんをしているそうで、夕方二人で来てくれるという。なので晩ご飯はフリチベ友達と二人の卒業生とともに博多の地物がでるお店でお食事する。

 翌朝は桜の便りも聞こえる暖かさで、一週間前富山で雪に埋まっていたのが、今はうすいブラウス一枚で、桜の便りを聞いているのだから、季節の変わり目はすごい。
 午前中はT君が車を出してくれてHちゃんと三人で志賀島にいく。この島は日本史で有名な金印が出土した土地であり、元寇の際の古戦場でもある。

 志賀島は本土と細い道でつながっている。本土と島の境目付近の砂浜で車をおりて、磯に出ると、昨日の生の松原と異なり、大量のゴミが漂着している。拾い集めてみると、一番多いのはハングル、次が中国と日本。T君によると博多の休日の過ごし方は「浜辺でバーベキュー」だそうなので、浜辺の日本ゴミはその連中のものである可能性が高い。ハングルゴミと漢語ゴミはもちろん彼方から漂着したものである。

 「漂着ゴミの現状」に関する環境省のレポートはここをご覧ください。https://www.env.go.jp/water/marine_litter/conf/c02-08/mat03.pdf

 蒙古塚につくと良いお天気で、三人で記念撮影を行う。この碑文も日蓮宗の日統が1927年にたてたもので、1928年の除幕式にはアノ張作霖が「大日本志賀島蒙古軍供養塔讃」という一文をよせている(三ヶ月後に爆殺)。解説によると、1938年には蒙古自治連盟政府の徳王(デムチョクトンドゥプ)も参拝している。1938年は日中戦争も始まっており、日本は東部モンゴルと満洲の地を勢力下にいれていたため、もはや蒙古は敵ではなく友軍扱い。従って、この碑文も元寇でなくなったモンゴル人の慰霊碑となっている。昭和期の蒙古に対するイメージの推移を研究してもおもしろいかも。T君は馬賊で卒論を書いたので張作霖の讃を喜んで見ている。
張作霖

 相撲好きのK嬢によると、最近はモンゴル力士たちもここに献花に訪れているという。今や日蒙友好の地になっているようだ。
 この蒙古塚は私が13歳のころ、志賀島に来た時はここにはなかった。例の福岡県西方沖地震により碑文も倒壊したため、今の地に移されたのである。
 再び福岡本土にもどり、T君のおすすめで鮮魚市場でふぐ定食を頂く。彼は博多にきてまだ一年目だが、大学時代の友達が訪れてくるたびにこうしていろいろ案内しているのだという。駐博多早稲田大使である。

 で、午後は福岡福祉プラザでチベットのお話をする。T君とHちゃんにはせっかくの休みなんだからもうサクラにならなくていいよ、というが最後までいてくれた。それどころか、プロジェクターのコントローラー、ホワイトボード、レーザーポインターを借りてきてくれるなど非常に働いてくれた。ホント良い子たち。

 私の話が終わると、福岡在住のチベット人ゲレックさんが、自分の故郷(遊牧地域)に学校をたてるための支援のお願いにたった。彼の故郷マチュには漢人がどんどん入植してきて、近代教育をうけていない故郷の人たちは漢人が変化させていく社会において隅においやられていること、日本で集めたお金を地方政府にわたして学校を建てるように頼んでみたけど、「中国は豊だからあなたの支援は必要ありません」と受け取ってもらえず、そのくせに故郷に学校がたつなどの変化は起きていないこと、今の時点では集めた募金を教育ボランティアの人にわたしたり、教材を買ったりすることに用いているが、将来的には中国の制度の中で上級の学校につないでいける学校の建設を目標としていること、この会のお金は透明性を保つために、現地の受け入れ組織には彼の親族や友達は入れていない、とのことであった。質問のある方、支援をしたい方、興味のある方は、ゲレックさんにご連絡を。

ノマディツク・チルドレンの会 事務局
gelek@ncoamdo.com Tel 080-1971-7815
ホームページ http://www.ncoamdo.com/

 このあと、T君は空港まで送ってくれ、三人でスタバでお茶して別れる。ありがとう、楽しかった。Tくん、Hちゃん。そして福岡のフリチベのみなさんたち
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COMMENT

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n | URL | 2015/03/30(月) 11:38 [EDIT]
遊牧民が漢人と仲良くなるのは、遊牧してたら難しいからなかなか役人さんも学校を作れないのでないでしょうか。遊牧民のモモとお茶のカフェを作り漢人をもてなす場所作りからスタートしたら、役人さんも来れるし、いつか仲良くなり学校も作って貰える道が出来ると思いました。華僑の方々も飲食店から他民族と仲良くなりコネを作りましたし。とても苦労したと聞いていますが頑張ってください。仲良くなったらダライ・ラマ法王もチベットにもどりやすくなり世界平和につながりますよね。
● >nさん
ブログ主です | URL | 2015/04/01(水) 14:51 [EDIT]
遊牧地域にも漢人がつくった町があり、遊牧民はそこに必要があれば買い物にいったり病院にいったりして共存しています。問題はそういう町で漢人が提供する教育を受けると遊牧民が定住・漢化してチベット人でなくなってしまうのです。できればチベット人のペースで教育受けられる学校を作りたいのですが、それが中国政府は許せないらしいです。

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