白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2015/06/30(火)   CATEGORY: 未分類
マンネルヘイムとダライラマ13世
今、マンネルヘイム(1867-1951とダライラマ13世の1908年の五台山での会見について調べている。世界史の教科書で引いても彼はのっていないので簡単に解説するとこんな感じ。
 マンネルヘイムは若い頃はロシア軍人をやっておりました。日露戦争にも従軍していて、戦は負けたけどなかなかがんばったので出世した。しかし、ロマノフ王朝があえなく革命でなくなったため、祖国フィンランドへ帰還。独立をめぐる内戦をかちぬき、お向かいのバルト三国がソ連に売り飛ばされていく中、ソ連からフィンランドを守り抜いた(しかもマンネルヘイム線という謎の防御線で 笑)。そのため彼はフィンランドの英雄として国民から愛され、フィンランドでもっとも有名な人と言われている。この人はユーゴスラビアのチトーとともに世界史で教えないとあかん人です。

 このマンネルヘイムは実はロシア軍人時代、1906-08年まで中央アジアから北京(北平)までつっきって、極東の情勢をスパイしていた。その途上、イギリス軍に追われてチベットから逃亡中のダライラマ13世と五台山で会見。その時の記録はAcross the Asiaにあるので、以下、そのハイライトをエリック・エンノ・タムの要約(ここにつないでます)から訳出しました。

ダライラマへの死を招くが、実用的な贈り物

グスタフ・マンネルヘイム男爵は1908年7月の日記にこう書いた。
「中国当局はダライラマをしっかり監視しているようにみえる」大尉マンネルヘイムはロシア皇帝の命をうけて中国における秘密情報収集にあたっており、丁度五台山(中国における仏教徒の四聖山の中でも最も聖なる山)に到着した。彼は五台山を「仏教徒のローマ教皇、ダライラマの牢獄とはいわないが、現在のすみかだ」と書いた。
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ワンという名の中国の軍人はマンネルヘイムに「軍人が警戒線をはって北東山西県へと向かってくるものを防いでいる」といった。ダライラマが逃げようとするなら、「必要とあらば、軍隊によって阻まれるだろう」しかし、マンネルヘイムは五台山を歩き回りながら、非常線はないことに気づいた。「しかし、ワンが私の一挙手一投足を非常な感心をはらって監視していることに気づかざるを得なかった」

ワンはマンネルヘイムに、「ダライラマ13世と謁見をする間には自分の通訳をつれていけ」といった。しかし、チベットの王侯は秘かにマンネルヘイムにこう言った「ワンは歓迎されていない」。チベット人はワンをスパイとみなして軽蔑しており、ワンやその軍隊が寺の近くにいることを禁じていた。

五台山はダライラマにとって牢獄というよりは司令塔であった。1908年の春に五台山につくや、ダライラマは北京の公使館に使いを送り、大使たちを招待した。駐中アメリカ大使ウィリアム・ロックヒルが最初の招待客だった。彼は急いでウオーキング・シューズをはき、五台山に向けて徒歩で出発した。北京から五日のトレッキングだった。

ロックヒルは1890年代に内陸アジアを探検した学者にして外交官であった。彼はチベット語をしゃべることもできた。ロックヒルはマンネルヘイムが五台山に到着する僅か一日前に五台山を離れた。
ロックヒルはセオドア・ルーズベルト大統領に「ダライラマは疑いもなく知性の人であり、偏見のない心を持ち、非常に、愛想が良い、優しい、思慮深い主人で、威厳のある人だ。」とこう報告した。ダライラマはロックヒルに、中国との闘争について語り、「チベットが遠地にあるが故に外国の友人がいない」と語った。それに対しロックヒルは「あなたは間違っている。チベット人が栄えて幸せであることを願うあなたたちに好意をよせる外国の人はたくさんいる」と請け合った。

1908年の夏、ダライラマは大使たちの行列を接待した。それは北京の公使館からきたドイツ人の医師、クリストファー・アーヴィングという名のイギリスの探検家、植民地省のイギリス人外交官RF ジョンソン、フランス軍の少佐で子爵のアンリ・オロネであった。ダライラマは1904年のイギリス軍によるラサ侵攻で生じたイギリス・チベット関係のほころびを修復し、自らの国際的な立場を増強することを希望していた。神秘のヴェールにつつまれた仏教のローマ教皇とのはじめての謁見は、みなにとって非常に楽しみなものであった。

マンネルヘイムは五台山到着の二日目、大院寺にあるマンネルヘイムの部屋に使いが駆け込んできて、「ダライラマがあなたを接待する準備ができている」と身振りで伝えた。マンネルヘイムは入念に支度した。ひげをそり、服を着替えている間、別の急ぎの使者が「ダライラマが待ちわびている」と告げにきた。「私も同程度にイラチだが、これ以上早くは着替えられない」と彼は書いている。二~三分後、チベットの王侯が現れ、「お前は教皇猊下をお待たせすることによって何を意図しているのか」と尋ねた。急いでマンネルヘイム男爵と王侯はダライラマのいる菩薩頂に向かう急な階段を登った。

正装したワンは中国人の衛兵とともに頂上で待っていた。中国人はマンネルヘイムの訪問について懸念していた。モンゴルを中国から分裂させ、ロシアの属国にしようとはかった、ロシア人の軍人を、中国当局は二人逮捕したばかりだったのだ。ダライラマがフレー(今のウランバートル)に滞在していた間、様々なちゃんねるを通じてロシア皇帝にメッセージを送っていた。ダライラマ猊下はロシア人情報将校に「チベットとモンゴルは完全に中国から別れて独立した同盟国家を形成すべきだ。この計画はロシアの保護と支援とともに、無血で完遂する」と語っていた。「もしロシア人が支援しないのなら、ダライラマは以前の敵イギリスに救いを求める」と主張した。ダライラマを訪問した後、マンネルヘイムは実は内モンゴルを縦断し、モンゴル人たちの不穏な空気を肌で感じた。

マンネルヘイムがチベットの教皇と謁見する際にワンに「つきそわなくていい」というと、ワンは敵意をほとんど隠そうとしなかった。この中国人の軍人はダライラマの助手二人と言い争った。マンネルヘイム男爵が小さな応接室に入るとき、彼はワンが自分の後をついて入ろうとして遮られたのを見た。

ダライラマは小さな部屋の後ろ壁にそっておかれた台の上におかれた金細工の施された肘掛け椅子に座っていた。ひげを生やした白髪交じりの二人の年配のチベット人が背後にたっていた。ダライラマは薄い青の裏地のついた"皇帝色黄色"のフロックと伝統的な赤の外套を着ていた。33才の仏教徒の教皇は剃髪し、口ひげを生やし、日に焼けた顔をしていた。目は大きく歯は輝いていた。マンネルヘイムは教皇の顔にうっすらと天然痘のあととみられるあばたがあるのに気づいた。教皇は少し神経質で、それを隠そうとしているようだった。それ以外はマンネルヘイムは「教皇は肉体的・精神的な能力を完全に備えた陽気な男だ」と思った。

マンネルヘイムが深いお辞儀をすると、ダライラマはかるくそれに頷いて答えた。絹のスカーフ(カター)を交換した。ダライラマ教皇猊下はマンネルヘイムの国籍、年、旅などの軽い話しから始めた。そして一呼吸おくと、こわばった表情で「ツァーリは密書を送ってきてはいないか」と訪ねた。教皇は私の返事を通訳が翻訳するのを明らかに興味をもって待っていた。マンネルヘイムが教皇に「出発前に、個人的にツァーリニコライ二世と話す機会は持てませんでした」と告げると、ダライラマは身振りで美しい白い絹のスカーフとチベット語の書簡をもってくるようにといった。それはニコライ二世への個人的な贈り物であった。

ダライラマはマンネルヘイムに「私はモンゴルと中国の旅を楽しんだ。しかし、心はチベットにある」といった。多くのチベット人が教皇にラサに戻るようにと促していた。彼の官僚は毎月2000人の巡礼がダライラマを訪問したと主張したが、マンネルヘイムは「疑いもなく誇張である」と考えた。チベットの教皇は、ダライラマを北京にこさせて叩頭させようとする慈禧皇太后の決着の場にひきだされつつあった。マンネルヘイムは「ダライラマは中国政府が望むような役をひきうけるとは思えない男のようだ。教皇は彼の置かれている逆境を煙にまく機会をまっているようであった」と書いている。策略かのチベットの教皇は何度も旅を遅延させてきたので、北京ではダライラマのことを遅れ(ディレイ)ラマというダジャレがはやっていた。

マンネルヘイムはダライラマにチベットの中国との戦いに対するロシアの同情を伝えて励ました。ロシアの問題は終わった。男爵はダライラマにこう請け合った。「ロシア軍は前より強くなっています。いまや全てのロシア人が猊下の歩みを大いなる関心をもって見つめています。」ダライラマは私の丁寧な言葉に耳を傾け、満足げにしていた。

ダライラマは二度、護衛官にワンが彼らの会話を立ち聞きしていないかを チェックさせた。ダライラマにとって危険な時代であった。ラサに戻ればすぐに自分の命が危なくなることを知っていた。中国人はチベットに対するしめつけを強化しており、ラマ達は暗殺され続け、僧院は掠奪され、チベット人は放牧地から追い出されていた。

北京はダライラマをよるべない信者たちをなだめ、中華帝国へのチベットの併合を和らげることのできる忠実な臣下にしておきたかった。しかし、ダライラマは素直ではなかった。彼は北京を九月に訪れ、すぐに清廷と喧嘩し、清廷はダライラマに誠順賛化という誠に屈辱的な称号を授けるという詔勅をだした。官報ではダライラマを「傲慢で無知な男」と酷評した。チベットではダライラマは暗殺されたという噂が広まった。様々な改革に怒って、ラマたちは中国にたいする聖戦を呼び掛けた。1908年の終わり、反乱が起き、中国軍は敗退した。ダライラマは結果として1909年にラサに戻り、イギリスとあらゆるヨーロッパ諸国に北京のチベットに対する野望を攻撃する電信を送った。

1910年2月中国軍がラサを侵略した。ダライラマはインドに逃げた。中国皇帝の勅書は猊下を「専制的でチベット人ももてあます、不愉快で、非宗教的で、度し難い、放蕩家だ」と非難した。清朝の崩壊後、猊下は1913,年にチベットに戻り、独立を宣言した。彼は1933年に亡くなった。

マンネルヘイム男爵は〔五台山でダライラマと別れる時、〕もはや誰の目にも明かな眼前にある危機を認識しつつ、ダライラマに実用的ではあるが異例の贈り物、すなわちブローニングの回転式銃を送っていた。男爵は「二年に及ぶ旅の後では価値るものはもうこれしか残っていないので」と説明をした。マンネルヘイムが猊下にいかにして七つの弾をすばやく銃に装填するかを実演してみせると、ダライラマは「歯を見せて」笑った。ダライラマはその実演を楽しんでいた。「時局がこうだから、たとえ彼のような聖者であっても、このリボルバーはマニ車よりは時には非常に役立つだろう。」とマンネルヘイムは記している。


 文中で、アメリカ大使ロックヒルやフィンランド人のマンネルヘイムはダライラマを好意的に記しているのに、中国があいもかわらず、根拠のない罵倒を投げつけているのが、何かもう百年前から何も変わっていない感じで脱力いたします。人民解放軍が入る前のチベットに入った欧米人はだいたい、ダライラマやチベット文化に対してリスペクトをしているのに、同じように入った中国人や日本人の大半は後進的で迷妄みたいな罵声を投げつけがちなのは、やはりアジアって異文化を理解し消化し評価する能力が低いからであろう。

予断であるが、マンネルヘイムの名言はフィンランド同様、隣に問題のある隣人を抱えているチベットにも日本にもいろいろ示唆的である。以下に引用するけど、別に他意はないですからね、今は時代も違うし(笑)。

「かつて我々は自らの手で独立を果たし、自由な未来を守ると誓った。自分たちの国を自らの手で守ることの出来ない国の主張など、他国は認めはしない。我々は自分たちの手で未来を守らなければならないのだ」
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COMMENT

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● 驚きの記事です。
マサムネ | URL | 2015/07/02(木) 21:05 [EDIT]
マンネルハイムがチベット史の一幕に登場するとは、意外でした。
マンネルハイムの邦字書籍では観ない記事だと想います。
インテリジェンス研究が流行している昨今ですので、意義深く拝読いたしました。
蛇足ですが、以前にスウェーデンの街歩き番組がNHKBSで放映、何気なく眺めていると或る御宅の軒先にチベット国旗が掲げられていました。政治的か宗教的か、はたまた日本の所謂万国旗的装飾なのか、番組では何の説明もありませんでしたので不明ですが、欧州あるいは北欧ではフリチベ盛んなのでせうか?国は異なりますが、北欧はマンネルハイム以来の親チベット感情が育まれているのでせうか?
ともあれ、我が国も斯様な掲揚や掲示の場が増えることを祈念して止みません。
● 右に同じです
シラユキ | URL | 2015/07/02(木) 23:16 [EDIT]
>マサムネさん
北欧はチベットにやさしいです。彼らはドイツやソ連に挟まれてさんざん苦労をしてきたので、チベット人の気持ちがよく分かるのです。そいえばソ連から最初に独立したバルト三国を最初に国として承認したのはアイスランド。涙なくしては語れません。
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| | 2015/07/04(土) 20:08 [EDIT]
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