白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2015/09/05(土)   CATEGORY: 未分類
ペテルブルグでチベット(1) 博物館編

 フィンランドの首都、ヘルシンキとロシア帝国の首都ペテルブルグに行ってきました。以下、ロシア、フィンランドの順にチベットネタを炸裂したいと思います。世界のどこに行こうともチベットを追求する、それがこのブログのつとめなのであります。最後に、お笑いネタでしめます。

 ペテルブルグはフィンランドの首都ヘルシンキからペテルブルグのフィンランド駅まで新幹線アレグロで三時間半?である。「わー、早くて便利」と喜んでいたが、実際乗ってみると国境付近でのたのた走って駅では長時間停車するわで、30分くらいは鈍行以下のスピードだった。あとで聞いてみると両都市間の距離は200km日本なみにとばしたら一時間かからないじゃん。あははははは。


 ペテルブルグはロシア革命後はレーニンにちなんでレニングラードといっていたが、ソ連崩壊後は旧名のサンクト・ペテルブルグに戻った。この町をレニングラードというと年がばれるので、注意しよう!  この町、ヨーロッパに憧れたピョートル大帝が、フィンランド湾に面したネヴァ河河口付近にあった沼地にベネチア、パリを再現しようとしたので、運河添いの町並みは完璧に西洋風。19世紀半ばに完成した町のシンボル金ぴかドームのイサク大聖堂は、沼地に石の柱を何本もたてて石の土台をつくってから上に重い大聖堂を築いている。北海油田工法かい(笑)。

 どうせ冬期は運河は凍結するからゴンドラなんてとおれないし、町中何度もネヴァ河の氾濫につかったため、いたるところに、「~年の洪水でここまで水がきました」という石版がはまっている。そもそもここ都市を築くのに良い条件の場所ではないのに、皇帝の趣味につきあわされて国家的な大規模工事に動員された方々は大変であったろう。あ、だから積もり積もった恨みで革命となったのか。

 ロシアといえば、チンギス・ハンの孫、バトゥに征服されて長くジュチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の支配下にあり、帝国の徴税人からロシア帝国の前身モスクワ大公国がおこったのは有名な話。これが何を意味するかというと、ロシアには北アジア遊牧民、とくにモンゴル帝国の遺産がそれはもうたくさん残っているということ。

  そして、チベットである。19世紀の中頃から革命がおきる前の20世紀初頭、ロシア帝国は数々の探検隊(プルジェワルスキー1839-1888、その弟子コズロフ1863-1935、オルデンブルグ伯1863-1934 etc.)をモンゴルやチベットに送りこんだ結果、チベット仏教に対する興味がロシア帝国内でもりあがり、仏教学が盛んとなった。

 写真はプルジェワルスキーの胸像の足下でラクダにのる私。ただのアホに見えますがここではこうやって撮影するのがロシアのお約束
プルジェワルスキー

 もともとロシア帝国内にはチベット仏教徒をたくさん抱え込んでいたこともあり(カルムキア人、ブリヤート人、モンゴル人)、チベット熱はもりあがり、ニコライ二世から始まって、皇族、貴族、学者(ウフトンスキー1861-1921、ニコライ・リョーリヒ1874-1947 etc.)ら上流階級が中心となり、「チベット仏教っていいね!」と言う感じになっていた。もちろんこのような流れに対してロシア正教会は怒り続けてはいた。

 ウフトンスキーはウルガ(今のウランバートル)や北京で東洋美術を買い集め、そのコレクションは現在エルミタージュ、クンストカメラ、宗教史博物館など3カ所に分割して保存されている。このほかにも前述のロシア人、ニコライ・リョーリヒも忘れてはならない。革命後彼は国外に脱出するが、生涯を東洋學と神秘主義と平和運動と文化財保護に捧げ、チベット仏教を題材にした絵を多数残している。写真はペテルスブルグの中心モルスカヤ通りにはまる彼を顕彰した石版。
774ルーリッヒ

 さて、まずはその道の人はエルミタージュの中央アジア展示室に直行しましょう(公式サイトはこちらから)。この博物館全部みていたら日が暮れるので、入場料もったいなくともここに直行するべし。ここには、コズロフがノインウラ遺跡から発掘した世界最古の匈奴パンツ、カラホージャから発掘した西夏文書、、教科書でよく見るパクパ文字で記されたモンゴル帝国パスポート、最古のウイグル文字で書かれたチンギスハンの勅令碑文など、遊牧民好きな方には見所はたくさん!。そのほか中央アジアの敦煌などの石窟からはぎとって将来した仏教壁画がえんえん何室も続く。しかも、人、ガラガラ。余裕の見学ができます。
エルミタージュチベット1

 さらに、チベット・コレクション室には1901年にダライラマ13世がニコライ二世に送ったブロンズでつくられた輪王七宝と八吉祥、さらにブリヤートの使節団がロマノフ王朝300年を顕彰して1913年にニコライ二世に贈呈した釈迦牟尼像など歴史的な史料が展示されていて涙がちょちょぎれる。また、地獄の王ヤマの絵を見るとおもしろいことに気付く。地獄に引き立てられていく人々がよく見ると、英国人。これは1904年のイギリスのチベット侵略以後の作例だな(笑)。このようにロシア帝国はたくさんのチベット美術を抱えているのである。

 エルミタージュをでたらすぐに中央郵便局の真向かいにある宗教史博物館に向かおう(→サイトはこちらから)。ここは世界宗教全般を展示しているのだが、もともと仏教セクションは二人のブリヤート僧とウフトムスキーのコレクションから始まっているから、上座部仏教や中国仏教よりもチベット仏教に比重がかかっている。
 この美術館の展示品の中で目を引いたのは、パンチェンラマ三世の火葬塔のブロンズ模型。仏塔だけでなく、前後の門樓と対聯の文字まで再現されている。誰が何のためにこれを作ったのか、どのような経緯でこのロシアの博物館に流れ着いたのか非常に興味深い。

黄寺

 それが終わったら橋を渡ってネヴァ河の対岸にいきロシア最古の美術館クンストカメラ美術館(こちらから)に行こう。この地域はもともとピョートル大帝によって町の中心として構想されていたのだが、強風と洪水により計画は放棄され、結局は今は大学や科学アカデミーなど教育施設がならんでいる。この外にもコズロフの住んでいたアパートをそのまま記念館にしたコズロフ記念館(サイトはこちらから)がある。

 このように、ロシア帝国の遺産である中央アジアの遺産を楽しみましょう。
最後にサービスで世界最古のパンツの写真をあげます。

498世界最古のパンツ

 ペスルスブルグで生きたチベット仏教に触れようとすれば、前前エントリーで紹介した、チベット寺院に行くのがおすすめ。今回の訪問記は次のエントリーで。

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マサムネ | URL | 2015/09/08(火) 00:13 [EDIT]
ロシア帝国も、かつての清帝國の如きであったのかも、と思わされる記事でありました。
第一次大戦に至る過程は、一神教の世界における多様性(多神教?)の試みの挫折の歴史と思われます。トルコ然り、オーストリア然り。
少なくとも各帝政それぞれにおいては、多様性の重要性に気付いていたように思います。
しかし、多様性を別の形で試みた資本主義や共産主義は何れも失敗、統一性(ファシズム、共産主義、民主主義)で打開を図る過程としての第二次大戦ということになるでせうか。
愚考はさておき、久しぶりにチベット記事がNHK等日本マスコミに大きく採り上げられることになりました。

チベット亡命政府、“パンチェン・ラマ”の解放要求 ニマ少年の行方不明から20年
http://www.sankei.com/world/news/150518/wor1505180030-n1.html

ニマ氏、せめてモンゴルやロシアから出国しないことを前提でも、そうした地へ解放されることを願って止みません。解放軍なのに解放せざるとは、これ如何に。

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