白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2015/10/05(月)   CATEGORY: 未分類
マンネルヘイムの事績を辿って
 九月の末に学術論文の締切があったため、ブログに手を付ける暇がなく、しかし放置しているとフィンランドの記憶が日々薄れゆくので、急遽「フィンランドにマンネルヘイム元帥を尋ねて」の巻。

 八月の末、私はフィンランドの首都ヘルシンキにいた。入管に並ぶが、列の進み具合が異常に遅い。実は後で気がついたのだが、これシリア難民の問題があったために審査を厳しくしてたのであった。かつて共産圏があった時、フィンランドはヨーロッパでもっとも東にある民主国家であり、アジアからみればもっとも近いヨーロッパであった。ここはフィンランドであると同時にEUのはてなので審査も厳しいのだろう。
マンネル騎馬像

 飛行場の外にでると、とにかく暑い。日向の温度計を見たら28度あった。日本からもってきたのは秋から冬にかけての衣類ばかり、半袖は日本から着てきて、帰る時にきるワンピース一着だけ、道行く人は短パン半袖、どうしよう。
 ホテルについて、wifiにつないでFBにヘルシンキ大聖堂の写真を投稿して「暑い」と書いたら「はああ? 夏にフィンランド? 先生は本当に場所と時を選ばないですね」と反応された。私は別にオーロラ見に来たわけでないので、いいんだよこれで。

 空港バスは30分くらいでヘルシンキ中央駅西口につく。この西口にはマンネルヘイム元帥・大統領の騎馬像(@アジア旅行中)がそびえたち、その前の大通りは「マンネルヘイム通り」と名付けられている。騎馬像の後には近現代美術館キアズマ、その後にはオペラハウス・フィンランディアがある。

  彼の像がこのように首都の中心にあることは彼のこの国における重要性を示している。マンネルヘイムがいなければ、フィンランドの独立はお隣のソ連につぶされ、目の前のバルト三国同様、1991年まで、ソ連の軍隊におびえながら民族自決はおあずけになっていたかもしれない。

 マンネルヘイムがいかにすごいかを共感して頂くために、フィンランドの歴史を簡単に説明する。ちなみに以下の解説はヘルシンキの軍事博物館(sota museo)と植村英一著『グスタフ・マンネルヘイム--フィンランドの白い将軍』で見聞きしたことで、アジア旅行の2年間以外は一次史料あたっていません(えばり)。
ヘルシンキ軍事博物館

フィンランドはもともとスウェーデンの植民地で、スエーデンがロシアに負けた後は、ロシア帝国の支配下に入った。しかし、アレクサンダー二世はフィンランドに自治を与えたので、今もなお彼の銅像はヘルシンキ大聖堂の前でカモメの糞にまみれながら引き抜かれずにたっている。情けは人のためならず。

 しかし、1899年にロシア帝国最後の皇帝ニコライ二世はフィンランドの自治を撤廃したので、フィンランド人の間には、シベリウスのフィンランディアに代表される、「スオミ(フィンランド人のこと)ょ、立ち上がれ」的なナショナリズムが沸騰した。マンネルヘイム一家はスウェーデン系のフィンランド貴族であったが、父親が事業に失敗したので、マンネルヘイムは軍人への道を選び、ロシア軍に入り、日露戦争では奉天でコサックを率いて日本軍と対峙した。

 日露戦争はロシアの敗北におわったが、マンネルヘイムは出世し、そこで1907年から1908年の間に、極東の情報収集のミッションをおおせつかる。そして、この旅の最後にマンネルヘイムは亡命中のダライラマ13世と会合するのである。しかし、ロシアは1917年に革命でなくなり、仕える対象がなくなったマンネルヘイムは、フィンランドに戻り、ロシア帝国の崩壊とともにフィンランドは独立を宣言する。辛亥革命の後にさっさと清朝と絶縁したモンゴルやチベットと同じで逃げ足が速い。

 その後、ソ連に呼応した国内にいる赤い勢力(赤軍)をマンネルヘイム率いる白軍が鎮圧し、当座のソ連化は避けられた。しかし、1939年から1940年にかけての冬、フィンランドは再びスターリンの侵攻をうけた。世界は大国ソ連と極小国フィンラドの彼我の戦力差から「フィンランド終わったな」と、チベットを見捨てた時と同じ反応をしやがったのだが、フィンランド人はがんばった。極寒に強い体と地形を利用したゲリラ線でソ連の軍隊を何とか食い止めたのだ(冬戦争)。そして、このけなげなフィンランドの姿に各国から義勇軍も集まってきた。あのクリストファー・リーもロード・オブ・ザ・リングでサルマンになる前は、フィンランド義勇軍だった。

 この冬戦争でのマンネルヘイムの神な戦いぶりは、ヘルシンキ軍事博物館(サイトはここから)のジオラマで立体的に再現されています(笑)。火炎瓶をなぜ英語でモロトフ・カクテルというか私は前前から不思議に思っていたのだが、これもフィンランドにきて分かった。冬戦争当時ロシアの外相だったモロトフがフィンランドの空爆を「労働者階級へのパンの投下」だと壮大なウソをついたため、フィンランド人はロシアの爆撃機を「モロトフのパン籠」、火炎瓶を「モロトフのカクテル」と皮肉ったのである。ソ連の戦車隊に対しフィンランド軍は文字通りゲリラ戦で戦車の中にこのモロトフ・カクテルをつっこんで戦った。マンネルヘイム元帥曰く、

 「自分たちの国を自らの手で守ることの出来ない国の主張など、他国は認めはしない。我々は自分たちの手で未来を守らなければならないのだ」

 今年の夏とくにこの言葉は身にしみた。それから第二次世界大戦をへてマンネルヘイムは1943年から1944年まで大統領を務め1951年になくなる。ちなみに軍事博物館はフィンランド軍が経営しているので、近現代の部分は現代のフィンランド軍の紹介があるのだが、最近の防衛は、他の国と共同して外交や政治で国をまもっているので、昔と違って兵士の数揃えればいいっていう話じゃないんだよ、的な終わり方をしていた。またまた身にしみた。

私の今回の旅の目的はマンネルヘイムがまだロシア帝国軍人だった時に行ったアジア旅行からもたらしたものを、閲覧すること。まず、この旅行期間中にとった写真は国立博物館の写真部において閲覧できた(館内の端末からサムネイルをみることができる)。主な町の通過日時を示すとこんなかんじ。
1907
3/13-3/21アクス(Aqsu) → 4/8 フレー(ラマ僧院の集落は当時みなフレーと呼ばれていた) → 4/12~4/20伊寧 (Qulja) → 5/9-5/10 フレーのラマ寺 → 7/24-8/12 ウルムチ → 9/25 トルファン → 10/25哈密(Hami) → 11/19 安西(An-hsi)→ 11/29嘉峪関→ 12/1-12/8粛州→ 12/14 シラウイグルの部落へ遠足・12/19甘州
1908
1/29-3/16蘭州→ 3/20 河州→ 3/26- ラブラン寺→ 6/23-6/27五台山→ 7/4-7/7 帰化城(フフホト)→ 7/18張家口→ ゴール・北京

 新疆を西から東に横断して、チベット高原の東北をぐるっと回り込んで、東へ向かい、五台山を通って北京に戻っている事が分かる。彼の写真を見ていて思ったのが、新疆を通っているのにモスクとかイスラムに関連した写真がほとんどなく、たとえば、新疆の西の果て伊寧 (Qulja)にいる時も、近郊のラマ寺(フレー)に何度もでかけて法要の写真をとり、粛州にいけばシラウイグルの部落に足をのばし、蘭州にいけばラブラン大僧院で激写といった具合に、イスラムでも、中国民衆文化でもなく、明らかにチベット文化圏に対する嗜好が見て取れる。

 フィンランド国立博物館にはマンネルヘイムがこの旅で中央アジアから持ち帰った様々な言語の古文書が所蔵されており(ただしヘルシンキ200km離れた倉庫に入っているので一ヶ月以上前に許可をとらないと見られない)、初代駐日日本公使として日本でもおなじみのラムステッド伯がアジアで蒐集したコレクションも所蔵している。ただし、マンネルヘイムがチベット寺から持ち帰った絵画、仏像は、彼個人の所有物なので、彼の最後の家、現在はマンネルヘイム博物館に所蔵されていると言う。

 そこで、私は最終日にマンネルヘイム美術館に向かった。
 ヘルシンキは小さな町なのでだいたいのところは歩いて行けるが、マンネルヘイム美術館町の町の東南のちょっとはずれの海際にあったので、路面電車にのった。降りる駅を間違えまいとして緊張していると、一人のフィンランド女性が話しかけてきた。
マンネルはく製0

「たぶん、あなた、メールしてきたイシハマでしょ? だったらここでおりるのよ」その女性はマンネルヘイム美術館の唯一の学芸員のクリスティーナ・ランキ氏であった。駅から博物館までの道すがら、しきりに日本の文化予算の多寡について聞かれた。聞けばフィンランドも不況で博物館の予算がごっそり減らされて途方に暮れているとのことである。

 大統領の終のすみか(博物館)はとても質素な普通の家だった。会計はクリスティーナの娘がやっており、これも予算不足なのか。クリスティーナによると、ダライラマ14世猊下も駆け足でこの博物館によられたとのことで、過去のゲストブックに記名されているという。法王もここにきた、というだけで、この場所が親しくみえてくるのが不思議。

 そして一歩屋敷にはいると、これがもう壁にかかっているものからサイドボードの上の置物までチベットのものばかり。仏画だったり、仏像だったり、数珠だったり、マニ車だったり、チベットホルンであったり。おもしろかったのは彼のアジア旅行対して発行された清朝のパスポートまで展示されていたこと。彼がフィンランドの男爵で、どのような経路をとおって中国国内を旅行するかがそのパスポートには漢字で記されていた。そして階段下のホールには1907年のアジア旅行中に、彼が狩りでしとめた鹿のはく製が年代入りで壁にかけられていた。インドの首相の娘さんがこの剥製みて、動物の権利について活動している女性であったため、ドンビキしていたそうである(笑)。

 彼の蔵書はヘディンの中央アジアの探検の報告書など、探検ものが大半をしめ、総体として彼の家の外国趣味は、彼が訪れた場所がチベット文化圏を中心にしていたことを反映してチベットものが主であった。彼が生きた帝国主義の時代末期、男は軍人、外交官、探検家、学者、ジャーナリストなどマルチな能力をもつことが理想とされ、男のレジャーはスポーツや狩猟など激しいものばかりであった。彼の屋敷はまさにそのような時代の「男」の生き様が集約していてえらい勉強になりました。

 ダイニングと居間以外の部屋にはその他の展示があり、たとえば、生涯にわたって獲得した勲章(日本から送られたものもある)、名誉学位、歴史の節々にとられた著名な写真などが展示されている。あとクリスティーナに言われて気付いたが、彼はロシア帝国最後の皇帝ニコライ一二世の家族写真を大切にとっていた。フィンランド人はロシアに攻め込まれてひどい目にあいつづけてきたことから、その多くがロシアに対しては嫌悪感をもっているが、マンネルヘイムはソ連はともかく、ロシア帝国には忠義を感じていたようである(ちなみに彼以外の彼の一族はロシアを見限っていた)。

 彼が最後まで寝ていた寝台は2m近い彼の身長には似つかわしくない幅も長さもない質素なものであった。これに寝たら彼の足は絶対はみでていたと思う。この彼の質素な部屋を見ていると、この人は根っから軍人であることが見て取れた。軍人は国家の命令に従って自分が必要とされる時に必要とされた場所に趣き、そこで最大限の努力をするものなので、自ずと私生活は質素となる。思えばマンネルヘイムはアジア旅行の時も、嬉々としてテント暮らしを行い、クリスマスも誕生日も無名のど僻地で過ごしているのに、彼の日記には「クリスマスを自分の家で迎えたい」みたいな泣き言はまったく書いてなかった。それどころか彼の旅の記述は非常に客観的でいかにも情報収集といった冷徹なものである。

 一方、同じ時代、日本人で青海やチベットを探検しダライラマ13世と会って同じようなことをしていた寺本婉雅は、その日記をみると日本の父母を思ったり、慨嘆したり、日本人らしくいい感じに鬱っぽい(笑)。まあ、ロシア革命のどさくさにまぎれてフィンランドを独立させて、いくつもの戦争を勝ち抜いてフィンランドの民主政治をまもった英傑を、日本人と比べてもしょうがないか。一人の人間の人生でこれだけの体験をし、これだけのスケールをもった人間は島国日本では現れようもない。
マンネル寝台

 このマンネルヘイムの生涯は、スウェーデン系の貴族の家系にうまれながら(彼の家系はもうフィンランドにいない)、ロシア帝国に軍人として仕え、1917年以後はフィンランドの独立堅持のために戦った。人によつてはこのうち一つの顔だけをとりたてて、誹謗する人もいるらしいが、大きなことをなしとげる人物は往々にして多面的な性格をもつものであるから、驚くことではない。清朝皇帝だって必要に応じて満洲人の族長、中華皇帝、チベット仏教の施主の顔を使い分けていて、みなが満足していた。私にとってマンネルヘイムの多面性はまったく違和感を感じるものではない。

フィンランド人は何か日本人に自国民と共通のものを感じるらしい。クリスティーナ曰く「お魚が好きなところとか、言葉もフィン語はアジア系の言語なとことか」。というので、私が「でもやはり最大の共通点は、隣がやりたい放題の面積だけの大国がいることでしょう」と応じたらすごい受けた。

 フィンランドの古本屋さんでラムステッド伯の本を探していたら、店主はラムステッドと日本の関係をよく知っていた。日本人もムーミンとイケアととサンタクロースとマリメッコがダイスキだ。フィンランドと日本は相思相愛かもしれない。フィンランドは人間も善良で親切で、英語もどこいっても通じるし、治安も良いし、物価が高いことをのぞけばなかなか良い国である。みなさんもどうぞ。
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西川一三、野元甚蔵さんが生き抜いた時代を考える(江本嘉伸) | URL | 2015/10/13(火) 19:17 [EDIT]
講演会「チベットと日本の現代史 もう一つの戦後70年」西川一三、野元甚蔵さんが生き抜いた時代を考える(江本嘉伸)
http://www.kawachen.org/event.htm

先日に拝聴した講演会、マンネルハイムに関する貴見と重ねて愚考いたしますと、味わい深いように思われました。

講師殿は、「特務という肩書が冒険者たる先人への理解を妨げて云々」という趣旨を、講演中に数度述べておいででした。

これは武人としてのマンネルハイム元帥という面で観るか、それともチベット求道者?として考えるか、ということと少し関係あるように思われます。

国家と個人が一体(一帯)であった時代と、現代の思考の断層を観ずるに至功徳が、マンネルハイム元帥の本質に少し迫れた今回の貴見にはお有りではないか、と愚考いたしました。

穴八幡の神事である、戸山公園での高田馬場の流鏑馬を拝観すると、日本人であることと侍であること、侍はまた古より求道者でもあったこと等想いを馳せつつ、御神意威にて御快癒あらせられますよう、改めて祈念申し上げます。

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