白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2015/10/27(火)   CATEGORY: 未分類
家康公生誕400周年で日光に行ってみた
今年は神君家康公がお生まれになって400年なので、四年ぶりにゼミ旅行で日光に行く。とりあえず旅行中に話したことを六項目にまとめてみる。

(1) 8世紀、勝道上人は後に日光と呼ばれるようになるこの地にいたり、中禅寺湖と男体山をみて、華厳経にとかれる観音の聖地、補陀洛(ふだらく)とみた。補陀洛はサンスクリット語でpotala、そう、あのチベットのポタラ宮殿と同じ語源である。家康が祀られる前の日光の中心は二荒山(ふたらざん)神社であったが、この「ふたら」も補陀洛の音写である。中善寺湖畔には6mもある立木観音が祀られるが勝道上人の手になるといわれるものである。華厳の滝が、この名なのもむろん華厳経にちなんだもの。この後、日光は関東における山岳修験の中心となる。
華

(2) 17世紀、天下を統一した徳川家康公は、死の間際、自らの体を一年は久能山にまつり、一年後に江戸の真北の日光に改葬しろと、遺言した。この遺言を執行したのが、天海大僧正(慈眼大師)である。天海の出自はなかなか謎がおおく、関東一帯で活動していたが、いつのまにか家康様によりそうようになり、家康の死後三代将軍家光にまで仕え、現在の日光山の礎を築いた。天海は実は三つの比叡山をつくっている。一つ目は織田信長が焼いた比叡山を復興し、二つ目は、江戸の鬼門をふさぐためにつくった寛永寺。これは比叡山を構成する諸堂を配置し山号も東の比叡を意味する東叡山と比叡山のコピーであることは明白。ここに平安京を守護した比叡山パワーを徳川の都江戸に勧請する天海の意図をみることはたやすかろう。そして、三つ目が家康の遺体を死後一年たって納めた日光の輪王寺。日光東照宮は家康を神としてまつっているが、その本地は、比叡山の根本中堂にまつられる薬師如来である。比叡山の有名な弁慶の担い堂も、日光山内にちゃんとあるので探してみよう!

(3) ちなみにこの三つの土地は観音菩薩の聖地、補陀洛(湖と山のセットが特徴)としてもシンクロしている。
平安京の鬼門 比叡山 琵琶湖
江戸の鬼門  東叡山(寛永寺) 不忍池
江戸の真北  日光山(輪王寺) 中禅寺湖

(4) 日光にもともとあった山岳修験も天海が家康を神として日光にまつった寺をたてた時の山王信仰も神仏混交の思想を背景としている。日光の社寺にまつられる神は仏であり、仏は神である。そして、山と王の文字がそれぞれ三つを一つに結んだ形をしていることが示すように、山王信仰とは天台宗のとく三つの真理が、実は本質は一つであることを示している。
 で、三仏堂の三体のご本尊(馬頭観音・千手観音・阿弥陀仏)と日光の三体の神様の関係を図示すると以下のようになる。
futara.jpg

千手観音=薬師如来(東の仏) =>男体山=新宮権現=大己貴命(父)
阿弥陀如来=(西の仏) =>女峰山=滝尾権現=田心姫命(母)
馬頭観音=釈迦如来(中央の仏) =>太郎山=本宮権現=味耜高彦根命(息子)

輪王寺に祀られる時の仏としての側面 => 二荒山神社で祀られる時の神としてみるとわかりやすいかも。

(5) 天海はこの三つの比叡山を皇族出身の天台座主・輪王寺宮に統括させ、国家鎮護と徳川家の安泰を同時に祈らせた。光武合体はじつは江戸の初期に日光で実現していたのである。幕末、幕府軍が最後まで寛永寺や日光にたてこもって新政府軍と対峙したのは、幕府と皇室を仲介する立場であった輪王寺宮を頼んでのこと。しかし、明治元年、上野は新政府軍と幕府軍の衝突によって炎上し、一方日光は板垣退助が反対したためかろうじて砲撃と破壊を免れた。このため日光山の入り口にかかる神橋には今も板垣退助の銅像がある。

(6) 徳川幕府が倒れ、新政府による神仏分離令により、神と仏が分かちがたく結びついていた山岳修験のメッカ日光のあり方は激変した。そもそも分けられないものを分けたので、その線引きをめぐって訴訟合戦がおき、その後も拝観料の分配、本尊の解釈・参拝の仕方にいたるまで細かく対立して現在に至る。それでも四年前に訪れたときにはかろうじてあった共通拝観チケットは、今回はなくなっていた。
 東照宮と輪王寺の各所に配置されている寺社の職員たちの説明をちょっと注意して聞くと、寺側は神的な側面の説明を避け、神社側は本地仏の説明を避け、それぞれ自らが寺であること、神社であることを強調していることが分かる。

 さて、我々は午前10時に東武日光駅で現地集合。現地集合にするのは、それぞれの経済事情に応じた手段で目的地に来るためであるが、紅葉のシーズンが重なったため、東武特急の席がとれずJR特急をつかったが、全部鈍行できた学生は、三時間立ちづめであったといい、へとへとになって到着した。他の学生も多かれ少なかれ前の晩徹夜か二時間睡眠とか、運転し通しとかで集合時点でヨレヨレ。11時に荷物をコインロッカーに預けてまず昼食。絶好調の滑り出しである。

 日光の観光ルートは、勝道上人の聖地巡礼を追体験するのがいい。まず、勝道上人が沙悟浄の力をかりて、大谷川をわたった渡河地点(神橋)からはじめ、彼の庵を起源とする観音をまつる寺四本龍寺に行く。天台宗の説明をするため空海と最澄の対照的な性格と生涯について語ると、みな、「イチローと松井のようなものだな」とへんな納得の仕方をしている。

 そして、次に日光の神々の仏としての姿をまつる輪王寺の三仏堂にいく。比叡山の根本中堂と同じ作りであることを見せたかったのに、なんと建物は解体されていて、ただのプレハブの中にご本尊が三体ならんでいた。しかも、そのうち一体は台座だけ残してどこかへお出かけ中。ちなみに、陽明門も大猷院もみな修理中の工事現場状態で、400周年の人手にあわせて完成させることはできなかったのかと疑問におもう。

 そこであれこれいっても仕方ないので、ひるまず修理中の時にしか見られないものをみてやろうと、三仏堂の工事現場を七階まであがってみる。しかし、屋根がはがされて木材がむきだしになった屋根をより高いところから見るだけであまり意味がない。しかし、外をみると日光の紅葉が見晴らせて美しかった。

 三仏堂の裏には天海大僧正がたてた法華経の相輪塔(護国経典である法華経をおさめた塔で国家鎮護のために建てられた。)がある。これは同じものが比叡山にもあり、栃木の大慈寺にもある。それから護摩堂で護摩の説明をして、いよいよ日光東照宮。家康と秀忠と家光と家綱がそれぞれ生まれ年が寅→卯→辰→巳と続いていること、東照宮は三代将軍家光公の時に、今の規模になったので、龍のイコンが多いこと、その他の眠り猫やバラの花などの彫刻は戦国の世が終わり、泰平の世が実現したことを示す平和の意匠であることを語る。また、本殿の前において古代中国の聖王舜が目立つところに彫り込まれているが、それは何でかというと、堯は血縁関係のない舜をみこんで王位を譲った。そして徳川は直前の政権担当者である豊臣と血のつながりはない。つまり、ここでは家康を舜にたとえて、徳川が自らの徳で政権をつかみとったことを主張しているのである。

 今回紅葉シーズンで宿が近くにとれず下今市の郊外にある学生むけホテルに宿泊。夜は会議室で宴会。本来この部屋はゼミ室として使うらしくホワイトボードがあった。私が「じゃあチベット語のアルファベットでも覚えて帰るか」というと、学生は「何言っているのか分かりません」と無視される。宴会は二時間でおわり、私は部屋にひきあげて寝た。翌朝は紅葉渋滞を避けるため、七時に朝食をとり、八時に出発の予定であったのだが、七時に食堂いっても誰もこない。仕方ないのでおこしにいくが、半分くらいしか食事にでてこない。
 しかしぐずぐずしているといろは坂が混むので、時間通りにみなを宿の送迎バスにのせ、東武日光駅から中善寺湖畔へ向かうバスにのる。

 朝早いせいかいろは坂はまだ渋滞がはじまっておらず、比較的スムーズであった。しかし、急カーブでまがるたびに何人かの学生の様子がおかしい。今朝朝食におきてこなかったのは二日酔いで食欲がなかったからか。何人かは何かリバースの気配。となりのガイコクジンに被害が及ばないかひやひやした。どうせ吐くなら飲まなきゃいいのに。

 中善寺湖畔につくと、天気はいいが猛烈に寒い。強風でロープウエイも遊覧船も全部とまっている。紅葉は強風にふちちぎられてほとんど道路につもっているのみ。湖畔はすでに紅葉の見頃をおわっていたのであった。私は暖かいところをもとめて自然博物館にとびこみ、ミュージアムショップにうっているストールをかって、真知子巻きする。耳と首が隠れるので多少は暖かい。しかしストールがはでであったため学生は「マレーシア人か」というので「インドネシア人だ」と応える。
逍遥

 次に華厳の滝にいき、元祖激ウツ学生、藤村操の「人生これ不可解」の厳頭の辞を読み、湖畔に戻り、二荒山神社中宮祠にお参りする。寒いが、真冬のように空が青くすみわたり男体山がくっきりと神々しくそびえたっている。観音の住む山であるからスピリチュアルにいえばポタラ宮と同じ。折しも我々の訪れた日は閉山式で、奥宮(男体山頂上)にいく道が閉ざされる日であった。学生たちに「山岳修験の聖地は女人禁制なので、ここも明治五年?くらいまでは女人禁制だったんだよ。大鳥居のところにあった巫女石はその禁をおかして山に入ろうとして石に変わった巫女だと言われています。リアルハリポタです。」と解説。

 それから、竜頭の滝にいき、河沿いにハイキングを少しして瀧上でバスに乗ることとした。ここで本日最大の悲劇が我々を襲う。

 わたしたちがバス停につくと一人の男性の方が待っていて、「ボクは45分からここでまってていますが54分のバスはまだ来ていません」と教えてくださった。すぐくるだろうとバスを待つが、待てど暮らせどバスはこない。バス停に書いてある電話番号に電話すると、10分後にはくるでしょうとの返事。しかし、その10分が過ぎてもこない。すでに時刻表の時間を40分以上過ぎているのにこない。我々はふきっさらしの道でまっているので、薄いセーターに薄いコートをきていた私でも歯の根が合わないくらい寒い。風のとおる上着をきていた学生はもっと寒かっただろう。何とかしたいが、こんな山の中ではタクシーも拾えない。
 やっとバスが来た。しかしそのバス減速もせず「満員なので通過します」とアナウンスして我々の前を通過していく。もともとない私の忍耐は瞬時にきれ、さっきのバス営業所に苦情電話を入れる。しかし、話し中でつながらない。今思えばこの状況は他のバス停でも同じであり、困った乗客らが苦情電話をかけまくっていたのであろう。

 うちのゼミは民主制であるため、学生たちは今後どうするか話合う。そして、「このままでは何台バスがきてもこの人数が全部乗れることはない。ひとまず終点の湯本温泉にいって、そこで始発のバスにのれば、確実に乗れるし座れる。まずは遅い昼食をとろう」と意見を集約した。

 そこで、竜頭の滝のレストハウスで遅い昼食を食べ、これまた時刻表通りではないべたべたにおくれた湯本温泉行きのバスに乗り込む。途中戦場ヶ原の秋景色が美しいので、神話の解説でもしようとかと見回すと、私の隣にいるWくん以外全員バクスイ中。もったいない。で、湯本温泉につくと向かいにとまっているバスに乗り込み、下山を開始。まにあえば日光の宝物館に行きたかったのだが、このバスも結構渋滞にまかれ、開館時間帯に戻るのは不可能であった。私たちがすでに乗っているおかげで中禅寺湖半で行列を作っていたバス待ち乗客のほとんどが乗れず、先ほどの我々と同じ状態であったのが哀れであった。ごめんなさい。

 今までゼミ合宿で何度か日光にきたが、夏だったので、人も少なく中善寺湖畔は涼しく、快適であった。しかし、紅葉シーズン、東照宮は激混みで中善寺湖畔は凍える風がふき、東武日光駅前の道は渋滞し、翌日何人かは風邪にたおれ、なかなか疲れる体験であった。しかし、全体としてはみな楽しかったと言ってくれており、死人もけが人でなかったのでたぶん成功と言えるであろう。
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COMMENT

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あくび母 | URL | 2015/10/28(水) 15:46 [EDIT]
ご無事のお帰りお疲れ様でした。
 小学校の修学旅行で秋の日光行きました翌月に第二いろは坂が開通するというときでした 崩落した華厳の滝の棚もありました なにより滝壺近くまで下りられ記念撮影した記憶が・・・、その後数度行きましたが何故か真冬、最近は真冬でも混んでますが、初夏・紅葉シーズンよりはましですね 

マサムネ | URL | 2015/10/30(金) 21:55 [EDIT]
東照宮~日本三大東照宮の川越は仙波東照宮。明後日朔日から新嘗祭まで特別公開です。
普段は閉門され拝めぬ拝殿へ参籠?出来ます。
門前に団子屋あり、老婆が賄いされております。
お一人で門番よろしく暮らしながらの団子屋稼業とか。後継者あれば何よりと、いつも案じております。
何方か、団子屋を継いだり暮らしてみよう、という方はおられないものでせうか?
なほ仙波東照宮は氏子も何軒かのみ、明治の神仏判然後は大変に厳しい状況であるそうです。
末筆ながら、御病床の励ましと御先祖の史料継承につき出過ぎた申し出を致しまして、大変な御無礼、叩頭お詫び申し上げます。謹白
● マルチレス
白雪姫 | URL | 2015/10/30(金) 23:13 [EDIT]
>あくび母さま
冬も混んでいるんですか! 日光は。寒いでしょうに。華厳の滝は自殺防止のために今は展望台からしか見られないんですよね。

>マサムネさま
おお、そこも昔ゼミ生と行きました。すばらしい旬の情報ありがとうございました。

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