白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2016/03/31(木)   CATEGORY: 未分類
賴山陽の故郷を訪ねて(鴨里シリーズ4)
ご先祖の資料紹介の投稿期限が4月末にせまってきたため、仕込みのために広島に向かう。広島にいくならやはり龍蔵院のチベットのお坊さんに会いたいので、前もってその旨N君に伝えていたのだが、備忘のため前日Nくんに電話ををすると、

Nくん「あのー、明日〔チベットの〕お坊さんたちは用事があってお寺を空けるそうです。翌日はあいているとのことです」(実は前日までお寺の行事があって疲れたお坊さん達はこの日スーパー銭湯に行っていた。お坊さんがそうしたいなら私は別に何もいわんのになぜはっきり言わないのか)
「だから、翌日は賴山陽資料館に行くので時間がないんだってば。お坊さんたちに予定があるのなら仕方ない。晩ご飯一人で食べるのは寂しいから、奥さん貸してくれない?」
Nくん「あのー、ボクは夕方から用があって」
「だから奥さん貸して」
Nくん「あのー、その夕方から用っていうのは、チベット関係の集まりがあってそこで話をするんですよ。あのー、いいづらいんですけど、石濱先生が来ているのなら連れてこいって言われていて」
「なら最初からそう言いなさいよ。チベットの話がさせもらえるのなら、光栄なことだから気を遣うことはない。でも前日に言われてもちゃんとした準備はできないよ。で何時から始まるの? 」
Nくん「五時です」
というわけで、とりあえずいくつかのパターンのパワーポイントをドロップボックスに投げ込んで、広島行きの飛行機に乗った。
 龍蔵院にいく予定が流れたので、初日は鴨里のひ孫の岡田秀夫について調べることにする。この秀夫の子孫が神奈川県立歴史博物館に例の鴨里、真、文平岡田家三代の資料を奉納した。

岡田秀夫(鴨里曾孫)プロフィール

明治42年(1909) 東京帝国大学文学科卒業
大正2年9月 北海道帝国大学予科講師
大正5年 広島高等師範学校に赴任し、漢文の教授に。
大正12年9月 文部省海外研究院として北京に留学し、ついたとたんに大腸カタルで死去。北京おそろしや。享年40才。

 ひ孫の秀夫は上に見るように広島高等師範学校(広島大学の前身)への就職歴があるのだが、赴任した年は資料によって大正4年説と5年説がある。そのどちらかを確定するには広島高師の資料を収蔵する広島大学文書館に行けば何か手がかりがあるはずである。

 広島大学のキャンパスはかつては市内にあったが、広い土地を求めてはるか遠くのここ東広島にうつった。空港から路線バスを二回在来線二回乗り継いでたどりついた広島大学は、新宿区のこぜまい早稲田キャンパスから来た私には途方もない土地の無駄遣いにしか見えない広大なものであった。
 めざす文書館はその広大なキャンパスの中にぽつんとこんな風にたっている。
文書館全景

建物に入ってすぐ左に閲覧室があったので、そこにいた人に訪問の目的をつげると、研究者らしい女性が奥からでてきて、「そんなことでしたらあらかじめ連絡をとっていただければ、もっと準備してから対応できたのに」と、昨日私がNくんにいったこととそっくり同じ台詞を言われる。

 それでも、その女性研究員の方は大正3年から12年の『広島高等師範学校一覧』を八冊もってきてくれ、「『〜一覧』には広島高師の時間割、校則、卒業生名簿、教員名簿がのっているので、教員であったのならここに名前があるはずです」という。
 そこで片っ端から『〜一覧』をくっいくと、秀夫の名前は大正6年に講師の身分ではじめて登場し、翌年には教授、最後は大正12年の従六位の教授で終わっていた。そして大正12年版には職員の赴任年を示したアイウエオ順の索引があり、そこには岡田秀雄(ママ)という漢字が微妙に違うけどたぶん秀夫の赴任年は大正5年と記されていた。まあこう書いてあるのだから大正5年説が正しいことになるのか。

 念のため「辞令は保管されていませんか」と研究員の方に伺うと、広島は原爆がありましたから、文書系のものはおそらく残っていません、とのこと。
 もっと資料をみていたかったが、5時前には広島に戻らねばならないので、失礼して再び路線バスにのって西条駅に戻り、広島行きのJRにのる。電車の中からNくんに16時45分につくとメッセを送ると、

Nくん「今時間を確認してみます。六時半からでした。余裕ですね
「何が『余裕ですね』だよ。先に時間確認しろよ。だったらもっと資料ゆっくり見たのに」とメッセを返す。
 夜は広島チベット友好協会の人たち(2006年にダライラマ法王の来広を実現させた方達)にチベットのお話をし、そのあと会食をする。チベットのお話を聴いてくださる方がいるのは本当にありがたいこと。情報伝達にいろいろ難のある人ではあるが、とりあえずNくんに感謝。
 
翌朝、Nくんと道々話をしながら賴山陽資料館までいく。
Nくん「ボクは広島にずっと住んでいますが、ここにお客さんを連れてきたのはこれがはじめてです。前を通っても入ったことないです。吉田松陰なんかの方がメジャーですよね」

 賴山陽ですらメジャーでないならその弟子のご先祖にこれまで日が当たってこなかったのも当然である。しかし、人気なんて実体のないものだ。今ヒットしている朝ドラの原作だって、朝ドラになる前は全然売れてなかったし、そもそも史実に忠実に描いたら、あさのダンナは妾囲いまくりの外に子供作りまくりの明治男だから絶対ヒットしなかった。吉田松陰だって歴史小説や大河ドラマに扱われるから人気があるのであって、真実の彼の姿はどれほどの人が認識しているだろうか。私も知らない(笑)。

 そもそも私ははやり廃りで何かを選択したことはない。流行り物にとびつく性格だったら日中友好バンザイの時代にチベット史にのめりこんだりしない。私の人生は今まで寄りたくとも大樹も陰もどこにもない状態であった。なので今更、「はやらないですよ」とか言われてもひるまないもんねー!!!

 賴山陽資料館は爆心地から380mの広島の中心部にあり、周囲がビルになる中、平屋である。学芸員のHさんは、賴山陽が叔父の春風にあてた書簡において、日本外史の壮大な構想を語っていること、現行の日本外史にはその一部しかとりあげられておらず、岡田鴨里の外史補の構成はたしかに山陽の当初の構想を完成させるものだと教えてくださる。
資料館入り口

そして、賴山陽の学会がないか、また、学術雑誌がないかを伺ってみると、学会なし、雑誌もこの資料館が出しているもののみという。戦中に忠君愛国にさんざん利用された反動で、戦後は研究も出版活動も低調なのだという。それでも市民に来てもらわねばならないので、賴山陽の言葉を小中校生に書道で書かせてコンテストをしたり、賴山陽の食卓を再現するなどしているのだそうな。

Hさんの「正直、資料を展示するより、おひな様飾った方が人がくるんですよね」という言葉に厳しい現実を知る。

 お昼に資料館をでて、隣接する被爆遺構の旧日銀広島支店を見学する。思えば今回はじめての観光である!
旧日銀入り口
私が「広島には平和記念館って名前の資料館が多いね」というと、口の悪いNくんは「入っても千羽鶴と子供の絵があるだけですよ」といっていたが、入ってみるとたしかに千羽鶴と子供の絵がある(笑)。

 だけどそれ以上である。当時の建物がそのままなので、20世紀前半のセットの中にいるような気分。ご先祖の資料のある博物館も明治時代にたった古い銀行だったので床の敷石や通路のデザインに何となく既視感がある。ただ広島の日銀は出納業務を行うフロアが吹き抜けになっているので、この部分については去年の八月の末にいったサンクトペテルブルクの中央郵便局を思い出した。
出納
 爆心地の建物はみな爆風でふっとんだが、この日銀はしっかりたてられていたので唯一残り、原爆投下の二日後 には業務を再開。日銀以外の銀行もこの建物をかりて業務を再開したのだという。日本人勤勉すぎる! 働かないと死んじゃう生き物なのか。

 地下の展示室には原爆のバネル写真がならび、旧賴山陽記念館のバルコニーの手すりが被爆遺跡として展示されている。山陽記念館はこの日銀が盾になってくれたおかげで瓦が吹っ飛んだ程度の被害ですみ、1995年に今の姿に建て代わるまで使用できたのだという。しかし、賴山陽の居室は全焼して、現在のものは復元である。

 地下の展示室にはまったく人の気配はなく、被爆者の写真に囲まれていると、霊感ゼロの私もさすがに怖くなってきた。早足で階段を駆け上がり外に走りでると、そこは21世紀の平和な広島である。
 もし私に霊感が1ミリでもあったら、大変なものを見ていたかもしれない。なくてよかった霊感。

 お腹がすかないので、昼ご飯を食べないまま龍蔵院にいき、新任のゲシェ・ゲレク先生にインタビュー。先生の僧院内での段階的にあがっていく学位の証書を拝見させていただき、先生が故郷にもどった時の故郷の人たちとの写真なども拝見させていただく。 ジャングンチュー(冬のディベート大会)にあらわれる元人間今バケモノの僧侶の話とか、カンツェンとミツェンの関係性などを教えていただく。ありがたいありがたい。ゲシェ・ゲレク先生はゴマン学堂ハルドン地域寮で、かの有名な「ジャムヤシェーパと同じ地域寮なのが誇り」というお言葉が印象的であった。

帰り際、玄関にお見送りしてくださったゲシェに後ろをみせると失礼かと思い、あとずさりをして玄関をでると段差をふみはずし右手を強打。さらにそこからタクシーのって広島駅についておりるとき、タクシーの屋根で頭を強打。ついでにその翌日、新歓の勧誘でごったがえす早稲田のキャンパスをあるいていたら、不注意な学生のもつプラカードが後ろに傾き、頭を強打される不運が続いたのであった。

しばらくは頭上と足下に注意して生きることとする。
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COMMENT

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● 桃の節句(旧暦)御見舞
マサムネ | URL | 2016/04/03(日) 09:52 [EDIT]
桃の季節は気分も長閑になりますね。
桃絡みで三題
なほ、チベットに自生する桃の話題が支那字紙にありましたが、先生は花見されたこと、ございますでせうか。

山紫水明処
http://www.kyoto-ga.jp/kyononiwa/2009/09/teien002.html
山陽はこの屋敷地を「水西荘」と名付け、庭にウメ、サクラ、モモ、ツバキ、ナツメなどの花木、実の成る木を好んで植えました。

頼桃三郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%BC%E6%A1%83%E4%B8%89%E9%83%8E
『チベット民謡集( I )』
http://www.aa.tufs.ac.jp/~hoshi/bunka/utagassen/tshigrgyag.html

チベットの歌合戦:ツィッギャー
桃の木は背が高すぎて 手が届きそうにもありません
桃の実よ 気をきかせて おいらの膝に落ちとくれ    
桃の実は落ちたいけれど 木がはなしてくれないわ
あなたに腕と度胸があるのなら 木の天辺にいらっしゃいよ    
● 花見ではニセ僧侶(支那)に注意
マサムネ | URL | 2016/04/04(月) 08:33 [EDIT]
満開でも要注意 狙われる花見客 カネ受け取る“ニセ僧侶?”目的は
上野公園で募金を集める怪しい僧侶を取材した。男は頭に帽子、足にはスニーカーを履いており袈裟を着ただけの姿と見える。上野公園では募金・宗教活動は禁止されており、上野公園側もマークしていたという。また上野公園側によると僧侶の格好をした男は中国人だという。男に直接取材を行うと、逃げ出そうとし中国語で「お金はもらっていない」など話した。またツイッターには「上野公園に花見客を狙った、カラシ色の袈裟着たニセ僧侶がウヨウヨ居るから気をつけろ」など書き込みがあり、男は毎日公園を訪れているという。
● マサムネさん
フジの白雪 | URL | 2016/04/10(日) 15:57 [EDIT]
マサムネさん、山陽の山紫水明處、らびに高僧モモ三郎さんの情報ありがとうございました。山紫水明處はもの中心の遺品がおおく、広島の山陽資料館は文献中心の所蔵なのです。京都の方にもいずれいってみたいです。あと、注意喚起ありがとうございます。

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