白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2016/06/27(月)   CATEGORY: 未分類
自分は何のコレクションも残せんことに気付く
25日は片山章雄先生が「マンネルヘイムのアジア旅行」に関する著作類を学内展示するというので、東海大学湘南キャンパスにいく。「東海」「湘南」という言葉から海でも見えるかと思いきやキャンパスから海は見えず、しかし、富士山がかなり近いところにみえる。

 展示はすべて片山先生の「私物」で、マンネルヘイムの日記もスエーデン語版・フィンランド語版・英語版の新旧版が全部揃って展示されている。片山センセは古本収集家なので、本にかける思いがアツイ。私より上の世代の東洋史学者はサザビーズで古地図や古物を購入したりする人などがわりといたが、片山先生もそのタイプである。
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 片山センセ「この本はね。古本だと一万円くらいだけど、箱にはいって、紙カバーがついて、美本であると百万するんですよ。大学の図書館に買わせましたよ」とか「〜は娘の学費より高くて、持ち主の教授が退官する際に、ファミレスで取引したんですよ」とか「〜堂のオヤジは私の顔をみると『今夜は飲みに行くので遅くなる』と家に電話をいれるんですよ。」とマニアな話が繰り広げられる。

 私は自慢じゃないけど史料はすべてリプリントかpdfでしかもっておらず、かつ、必要に迫られて古本を買うときでも底値のものをかう。なぜなら我が家にくると同時に私と愛鳥と愛猫に破壊されるため、美本を買っても意味がないからである。箱なんてついた初日に踏み壊す。

 片山センセ「大谷探検隊の隊員である、藤井宣正は、エドワード七世の即位式とお葬式の時両方ロンドンにいたんですよ。だから当時の空気をしるために、これを買ったんです」とエドワード七世の即位や葬儀の当時のポスターをみせてくださった。当初1902年に6/12に戴冠式が挙行されるはずが盲腸になって八月にのびたので、古い方の日付の部分が飾り模様で消されていることなどを解説してくださる。

 私は「早稲田のY先生は今在外研究期間でロンドンにいて、イギリスのEU離脱を目の当たりにしましたが、隔世の感がありますねえ」としょうもないコメントをする。

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 翌26日はゲン・ゲレク先生がインドにお帰りになる前の最後の東京法話ということで、ゴマンハウスをWくんとともに訪れる。法話のテーマは、14世紀の前半に活躍したカダム派のトクメ・サンポという人の書いた精神の修養法に関するテクストである。

 簡単にいうと、「悪いことを習慣化してはならない」。中毒化して自分の意志ではやめられなくなる。そして、悪い行いを習慣化しないためには、自分の心を客観的に監視し、悪徳のもたらすものについて常に思考せよ、悪が習慣化しないうちにとめなさい、習慣化したらもうとめられません、という話。非常に有り難く、家に帰ってダンナに読み聞かせた。

先生は最後にこのように結ばれた。
 今日は日曜日です。お休みの日に楽しいことがたくさんあるのに遊びにいかず、仏教の勉強しにこられてとても有り難いことです。みなさんのおかげでこのテクストを紹介することができました。私はこのテクストを法王から伝授されているので、全部でられた方には全部の、一回の人には一回その伝統につらなったことになります。この伝統は著者である菩薩トクメサンポから続くものです。
 あなたがたが、可能であれば今生でなく来世もこの教えのように菩薩行を実践できますように。それができなくとも少なくとも今生でこのテクストの内容を活用できますように祈願します。

 法王は何度も日本にいらして、日本において説法しているのは、日本において仏教の哲学と実践(顕密)の教えを学ばれることが重要だと思っているからです。日本は生活環境がよく、人々は衣食に困っていないし、社会も安定しています。仏教を学ぶだけの条件がととのっているのです。チベット人は亡命社会にいるので、その両方がありません。今チベット本土でもふたたび、セタのラルンガロ僧院が破壊されるという告知がされています。つい最近まで文革があって仏教を学ぶことも困難な状況でした。
 なので、仏教を学ぶ環境がある日本において仏教の教えがきちんと残ることは意味のあることです。日本人が是非仏教の教えを学んで欲しいと法王も我々も考えています。
 また日本にくる機会もありますし、また来たいと思っています。
 現在、アメリカでチベット語の大蔵経を英語に翻訳する計画が進行しています。これはアメリカ人にチベット仏教徒にするためではありません。チベット仏教をになってきたチベット語危うい状況にあり、本土も漢人社会が優勢となりチベット語をまもっていける状況ではないため、仏教を後世に残すために行っているのです。
 まだ仏教のテクストがナーランダーの解釈にそって正しく理解できる人々が存命の間に他の言語にうつしておけば、20年30年後、チベット語が今のままとは言えない状況になった時にも仏教が存続することができます。
 仏教は民族とか言語をこえて内容が伝わることが重要なのです。


 法話の間中、ゲン・ゲレクはiPadにはいった仏典を参照したりしていた。Nくんによると今デプン大僧院の僧侶はみなiPadで仏典を読んでいるそうで、「内容がわかれば媒体は紙媒体でなくてもいい」という感じなのだという。

 そういえば私が所有しているチベット語の史料やテクストはみな新装本か写本だったらpdfでまったく現物志向ではない。私も知らず知らずのうちに内容さえ分かれば、コピーでも電子情報でも媒体はどうでもいいという姿勢で研究していたんだなあと改めて思う。片山センセは20世紀初頭の探検家関連のコレクションを残せるが、私はチベットに関して何のコレクションも形成してこなかった。
以下に「菩薩行の37の実践」の最終部分の法話をあげる。全文は文殊師利のサイトにある。私がきいたのは最終回なのでそれ以前の解説はサイトでご覧ください。

智慧がなければ五波羅蜜によってさえ
正等覚を得ることなど不可能である
それ故 方便を具え三輪無分別の
智慧を修習する これが勝子の行である

*智慧とは分析的な智慧の中でも最高のものであり、空性を理解する智慧である。この智慧がなければ他の五波羅蜜があっても仏陀にはなれない。たとえば、車を作りたいと思っても、材料を集めたり、作り方を知らなければ作れないのと同じように、車よりもっと重要な仏陀になるためには、空性を理解する智慧によって煩悩障と所知障の二つを断たねばならない。
*智慧と方便が二つあわさって仏陀となれるが、方便は六波羅蜜のうちの智慧を除いた残りの五波羅蜜である。
*三輪とは対象と、行為主と行為の三つである。布施波羅蜜を例にすれば、布施を授ける対象、布施する人、布施という行為という三輪、忍耐波羅蜜であれば忍耐の対象である敵、忍耐する自分、忍耐する行為の三輪。精進波羅蜜であれば精進の対象である善と善を行う我々という主体と、善に精進するというという行為の三輪であり、これら三つを区別して実体視しない無分別の智慧を持つことが大切である。どんな仕事をする上でも対象を分析してただしく見た上で、五波羅蜜を三輪を区別せずに行いなさい。

自らの迷乱を自らが検証しなければ
法師の姿をしても非法を為し得てしまう
それ故 常に自らの迷乱を
検証し断ち捨てる これが勝子の行である


*本説ではなぜ智慧(般若)が必要かについて説いている。たとえば仕事を例にとると、自分はなぜ仕事をするのか。仕事にどういうメリットとデメリットがあるのか、などと智慧によって分析すること、自分の行いを検証する知性が必要である。貪嗔痴に動機づけられて、行動すれば、たとえ僧侶や行者の格好をしていても、法でない行為をしていることになる。だから自ら自分の間違いをよく検証し、「違うな」「正しい方向ではないな」と少しでも思うような行為は、最初からやらないこと。菩薩は常に絶えず、自分の心を観察している。

*自分が「間違っていること」(迷乱)を認識することはとても重要である。間違っていると悪業(十不善)を犯してしまう。十不善の一つである殺生を例にとれば、アメリカで銃の乱射事件がおきた。犯人は「悪い人を殺したら社会がよくなる。悪い人を殺したら楽しい」と思っていたかもしれないが、殺す前にこう考えなければならない。「殺人を犯したら監獄に入ることになるし、友達も家族もつらい思いをする」と。こう考えれば「あいつを殺したら楽しいだろう」と最初思っていたとしても、その考え方が間違っていることが分かるだろう。
 十不善の一つ邪淫(邪なセックス)も同じである。邪なセックスは家族を崩壊させる最大の因であり、離婚ともなれば互いの財産もへる。よく考えたら何一ついいことがないのに、そういう不善な行為をする瞬間には、だいたいは間違った考え方に支配されているのでやってはならないことが分からない。平気でウソをついてまで実行してしまう。なぜ十不善がよくないのかは考えたらすぐ分かることである。自分が「間違っている」ことを理解することが重要である。

煩悩に支配され他の勝子たちの
過失を語れば自らが堕落するだろう
大乗に入っている人たちの
過失を語るまい これが勝子の行である

*三大煩悩とは執着(貪)、怒り(嗔)、愚かさ(痴)である。たとえば怒りを例にとる。嫌いな人がいるとその人の欠点を数え上げて、その人の間違っているところを訴えようとする。しかしそんなこといくらしても相手は傷つかず、自分が堕落するだけである。相手は悪くなく、無知から悪口を言っていることもあるだろう。悪口をいっても何も利益はない。自らが堕落するだけだ。
*ここでは「大乗に入っている人」と書いているが、大乗に入っていない人の悪口を言うのはいいというわけではない。
*菩薩行をなぜ学ぶのか。菩薩の生き方はそれを実行できるとは限らなくとも、菩薩のようになるといいことがある。そしてその逆は不幸になる。ある時、夫婦が仲違いし、互いに別の愛人をつくったとする。別れた夫婦は新しい相手に元のパートナーの悪口をいうだろうが、その時自分の欠点を含めて相手との関係を公平に話す人は少ない。また、怒りという煩悩に支配されているから相手を正しく語ることもできない。新しいパートナーはそんなあなたをみて「この人は人と仲良くしても、いったん喧嘩したら掌を返したようにこんなに悪く言うのか。性格が悪いんだな、この人と仲良くするのはやめよう」と思われるだけだ。本来別れた人の悪口は慎むべきなのである。人の悪口をいう人を褒める人は世の中にいない。悪口は言わない方がいい。
 執着という煩悩に支配されている場合は、今度は過剰に相手を美化する。

富や名声に支配されれば互いに諍い合い
聞思修という為すべきことが失われる
それ故 友 親族 家族 施主の家にて
執着を断ち捨てる これが勝子の行である

*この世のほとんどは財産・名声を得るための生存競争に費やされている。ある人が洋服を売っているとする、別の人がもっとよい服を売るよになると、その人の洋服はうれなくなる。だから、新しい商品を開発しなければならなくなる。政治家が世に出ようとすると、いろいろなところで人の機嫌をとらければならないけど、このような競争をしていたら、いつまでたっても仏典を学ぶ時間は生まれない。だから菩薩は財産・名声への執着を断たねばならない。

言葉の暴力は他人の心を混乱させ
勝子の作法を失落させてしまう
それ故 他者の意にそぐわない
悪口を断ち捨てる これが勝子の行である

*十善の中に粗い言葉(悪口)を言わないというものがある。粗い言葉とは、布に喩えればトゲトゲざらざらした、さわるだけで痛いようなものである。荒っぽい言葉は耳障りで、その言葉を吐いた人をみれば表情がゆがんでおり、その言葉の意味を理解しようとするといやな気持ちになる。だから、そんな言葉は言わないこと。
*六波羅蜜は自分の心を成熟させる。他人の心を成熟させるのは四攝事である。四攝事の一つに「優しい言葉」(愛語)とは、聞いただけでもここちよい、心にも心地よい言葉のことで悪口の反対である。
*忍耐をどういう場面でするかは特に重要である。怒りがおきている時は忍耐はしようと思ってもできない。だから、忍耐が有効なのは、怒りとか嫌悪感がおきる前の段階なのである。ある人を嫌いになりはじめる時、最初はそんなに嫌いでなかったものが、いろいろなことをへて、ある時、そういえばあの人とはあんなことも、こんなこともあったと相手の欠点を数え上げるうちに必要以上のその人が嫌いになり、果ては殴ってやろうとか思うようになる。だから、忍耐とは相手の欠点を数え上げている時におこすべきである。
 執着の場合は対象に意識が過剰に依存していく段階において、それをとめるべく起こすべきだ。

煩悩が習慣化すれば対治によっても退け難くなる
正知正念こそが人の武器として手にし
貪りなどの煩悩が起こったその瞬間に
直ちに破壊する これが勝子の行である

*1行目は重要なことを言っている。本来は善を習慣化するべきなのに、多くの者は煩悩を習慣化しており、煩悩は習慣化すると退け難くなる。たとえば、麻薬中毒とかアルコール中毒はアルコールやドラッグに対する執着が習慣化すると、ドラックやアルコーをやめようと思ってもやめられなくなる。麻薬中毒の対治とは麻薬の欠点、たとえば「違法なのでみつかると監獄にはいる」とか、「人格が破壊される」と考えることであるが中毒者はそのような対治があってもやってしまう。
 また、いつも怒っていて、人のせい、政府のせいといっている人に、「落ち着け」といっても聞くことはない。このように、よくないと思っても習慣化してしまうとやめられなくなってしまう。
*2行目の正知とは「心を外側から監視すること」である。たとえばアルコールをとる時「今のみすぎている」と気づけば飲み過ぎることはない。また、「正念」とは「アルコールはよくない」と思い出すこと。正念と正知を我々の武器として、たとえばアルコールに依存している場合、アルコール飲もうとした瞬間に、飲み過ぎていると心を監視し、飲んだらまずいことがおきると思い出す。こうして心を客観的にみるのが煩悩に支配されないコツなのである。

つまりはどこでどのような作法で何を為すとも
自らの心の状態はいまどのようななのかを
常に正念し 正知するということにより
利他を成就する これが勝子の行である
*どのようなものを得たり、何をしても、誰とあっても、常に菩薩行をわすれないで自分の心がどういう方向にいっているか監視することによって利他行を行うことができる、それが菩薩である。長期的なビジョンをもって活動しなさい。

〔廻向〕
そのように励むことで成就した諸善を
無辺の衆生の苦しみを取り除くため
三輪清浄なる智慧により
菩提に廻向する これが勝子の行である
*この前で文章は終わり、本節は廻向文である。菩薩はこれまで積んできた自分の善によって他の命あるものの苦しみがなくなるようにと祈る。行為の対象と行為者と行為は真実としてないことを理解して、どのような時も利他の活動を思いなさい。救うべき命あるものは、空間に果てがないのと同じく無限にているのである。

顕密の経論で説かれている意図を
勝れた者たちが説かれているのに随順し
勝子の実践の三十七よりなるものは
勝子の道を学びたい者のために示した
*ここからこの著作の執筆の事情を示すコロフォンとなる

智慧が弱く学びも小さいがため
賢者を歓喜させる韻律もないけれど
経と正法に説かれるものに依っているから
誤ることのない勝子の実践の善なるものと思う
*なぜこのように謙遜しているのかというと、仏教はインドにはじまって、チベットに伝わった。インドの仏教大学ナーランダーやヴィクラマシーラでは学者が新しい著書を書くと査読委員会のようなものが作られて、みなで吟味し、その本が世の役に立つかどうか、韻律がまちがっていないか。出典を間違えていないか、内容に間違いが無いかを検証する。
 その委員会をとおると、テクストを旙にくくりつけ、僧院のいただきにかざって、その本を世の中に広めることを許可する。吟味の結果却下されると、犬のしっぽにくくりつけて人間以外の動物に役に立つようにする。
 このような史実をもとに、本書の著者トクメサンポはチベットの人であるため、インドの人の著作のように美文ではないと謙遜しているのである。しかし、インドの聖典を勝手に解釈したのではなく正法に基づいているから内容に間違いはないと断っているのである。

しかし勝子行は広大なるものにして
私のように劣った知性では計り難いため
矛盾や無関係などの過失の集まりを
勝れた者たちは忍んでいただけるよう願わん

ここから生じた善により一切衆生が
勝義 世俗の最勝なる菩提心により
有辺と寂静辺に住することもなく
主観自在に等しきものたらんことを


*このテクストの最初と最後に観音菩薩がでてくるのは、二説ある。菩提心をおこすには慈悲が必要なので、慈悲の仏である観音菩薩をここで称えるというのが一つ。
もう一説には、ツォンカパは人生の最後は文殊菩薩と会話しながら著作をしていたように、この著作の著者であるトクメサンポが観音を本尊としていたからという説。

*「勝義の菩提心」は「空を認識する智慧」。「世俗の菩提心」は「一切有情を救おうという心。有辺とは六道輪廻にいる人。寂静辺とは声聞・独覚・阿羅漢果をえた涅槃にいる人。大乗では輪廻も涅槃もこの二つのどちらにも住せず、人々を救い続けねばならないことを説いている。

以上は自他を利益するために経典の言葉と正しい論理を語る僧侶トクメーがグルチュー・リンチェン窟で記したものである
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COMMENT

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● コレクション/有り難き説経
マサムネ | URL | 2016/06/29(水) 20:07 [EDIT]
コレクション
様々な人々の心に残り伝えられる貴重な文化的何かが、貴姉と接した人々のコレクションとなるのではないでせうか。
有り難き説経
ブータンの人々にも届くことを願って止まない良い法話に接した喜びと感謝を申し上げます。
http://tocana.jp/2015/10/post_7491_entry.html
“幸福の国”が薬物汚染でハイ(灰)になる .
「麻薬王国」に変貌した“幸福の国”ブータン! 危険すぎる粗悪ドラッグ横行か?
● >マサムネさん
シラユキ | URL | 2016/06/29(水) 20:38 [EDIT]
ブータンの薬物汚染は、たしかにインドやタイにも共通する問題で、というか、途上国大体これですし、IS戦闘員もドラック蔓延しているようで、ようは体力をもてあました若者がいて、国家の薬物管理がゆるいと、必然的にドラッグ汚染が蔓延しているようで、困ったものです。

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