白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2016/08/24(水)   CATEGORY: 未分類
初歩の瞑想(ギュメ法話2)
ギュメ寺法話パート2。帰依の仕方と初歩の瞑想です。
写真はお勉強をするお坊さんたち、前世僧だったと思われる境内でなごむ犬、雨天の時の論理学道場です。

講師: セルナン・ロティ先生 日時 8月13日

本日は、帰依の仕方、そして、「瞑想のやり方」についてお話します。

●三宝に帰依する

 まず仏教徒であるか否かの境目は、「三宝(仏・法・僧)」に帰依しているか否かにかかっています。たとえば、建物の内側と外側の境目は門にありますが、仏教とそれ以外の思想(外教)の境目は三宝に帰依するかどうかにあります。

 仏教に「帰依」するには、二つの原因が必要です。我々は仏教によって心を陶冶しなければ永遠に輪廻をさまよい続けることになります。まず、この輪廻の苦しみを知らねばなりません(一つ目の因)。その苦しみを知って輪廻から逃れたいと思い、その手段を提示しているのが仏教であることを知り(二つ目の因)、その結果、仏教に帰依します。たとえば水の中に落ちて死にそうになったら(一つ目の因)、水の表面に出たいという願いが生じて、そこから出る方法を考えます(二つ目の因)。
 我々の生は短く、来世はどんな生が待ち受けているかわかりません。もし悪いことばかりしていれば、その悪い行いの結果として地獄や餓鬼や畜生といった悪い境遇(悪趣)に陥ります。
 憎しみとか、怒りを抱き、喧嘩とかばかりしていると、地獄に落ちることになります。地獄においては死んでも、そこで終わりではありません。虚空から声がするとふたたび蘇り苦しみを味わい続けねばなりません。このような苦しい状況下では善い行いをすることもできないので、地獄にいる期間は果てしなく長くなります。イメージとしては、仕事で大失敗してしまい、夜寝ているときにそのことを思い出してうなされる時のような感じが永遠に続くのです。
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 このような地獄の苦しみを知れば、「地獄に生まれたくない」と、心から三宝に対する帰依の気持ちが生まれてきます。また、ケチな人は餓鬼になります。餓鬼はお腹がすいて食べ物が目の前にあっても、それを食べることができません。また、動物に生まれてしまったら自分の人生を思うように操ることができません。畑で働かされたり、明日には食肉になって食卓に並ぶことになるかもしれません。
 我々はいつも人間に生まれることができるわけではありません。善い行いをしなければ、地獄、餓鬼、畜生といったこのような悪い境遇(悪趣)に陥ることになるのです。

 人はうまくいっている時には神様を忘れていますが、困ったときには神頼みをします。だから、悪い境遇(悪趣)に陥る苦しみを想像して、それを救う力が三宝にあると考える、これが帰依の因です。

 この繰り返される生の中で、人間に生まれることは非常にまれなことなのです。地獄や餓鬼や畜生に生まれてしまったら、善行もできませんから、なかなかこの境遇から出られません。犬は賢い動物ですが、犬ですら長いスパンでものを考えることはできません。人間のみが先のことを考えて善行を積み重ねることができます。

 悪い境遇に陥ってしまった自分を想像する時、人ごとのように考えるのではなく、具体的に自分の身におきたと具体的に考えることが大切です。そうしてはじめてこの悪趣から離れたいと思い、そこから離れる方法を示す三宝の価値がわかってくるのです。

 あなた方が普段抱えている一つ一つの具体的な苦しみについては、三宝に帰依する必要はありません。もっと大きな視点からみた、輪廻というこの苦しみから逃れる方法は、仏教しか説いていません。

●我々は病人、三宝は病人を癒やす医師・薬・看護師のようなもの

 病人を助けるには三つのものが必要となります。診断をくだす医者、医者が処方する薬、その薬を用いて病人を世話する看護師の三つです。良い医者にかかり、良い薬をもらい、親切な看護師さんに面倒を見てもらえば、病気は速く治ります。
 煩悩という病に苦しむ我々の場合には、良い医者は仏、良い薬は仏法、良い看護師が僧にあたります。そう三宝(仏・法・僧)です。

 このうち、仏様についてのみ詳しく説明すると、仏様には四つの美質(功徳)があります。

(1) 仏は自身、苦しみから解放されている。
 キリスト教は神という絶対者(造物主)を信仰します。しかし、仏教における仏はキリスト教の神のような絶対的存在ではなく、もとは我々と同じ人間でした。仏様も覚りを開く前は我々と同じように輪廻の中で苦しんでいましたが、あるとき真理を体得して仏の境地を得ました。この事実は我々も仏になることができる可能性を示しています。
 仏様が輪廻の苦しみから解放されていることがなぜ重要かといえば、穴に落ちたことのない人は穴から出る方法を知りませんが、仏様はかつて我々と同じように穴に落ちていたものの、そこから出ることができたので、その穴からでる出る方法を知っているからなのです。

(2) 仏は他者を苦しみから救う手段(方便)が巧みである。
 人々の様々な能力や状況にあわせて、仏様は巧みに法を説くことができます。頭が痛い人には頭痛薬、肝臓が悪い人には肝臓の薬をあげるよにう、仏様はそれぞれの人の苦しみに応じた導きを行うことができます。

(3) 仏はすべての命あるもの(衆生)に対して分け隔て無い哀れみをもっている。

(4) 仏は自分にとって役に立つ人も役に立たない人に対しても役に立つことができる。

 太陽が地上にあるものに分け隔て無く光を注ぐように、虚空の月が地上の水面に無限に姿を映すように、私たちが仏様に心を向ければ、仏様は分け隔て無くその慈悲を与えてくれます。ただ、地上にある水が濁っていたら虚空の月がぼんやりしか映りません。これは月の問題ではなく、それを映す側、すなわち我々の心の側の問題です。

 みなさんは自分のことを大切に思っていますが、仏様は母親が一人子を大事に思うように全ての人を大事に思っています。したがって、どんな生き物に対しても同じ慈しみの心を持っているというのが仏様の美質なのです。
 このような仏様の美質を知った上で、三宝(仏・法・僧)に帰依するならば、その福徳は尽きることがありません。朝起きてすぐ5分間、心の中で三宝への帰依を行うだけで魔が入る余地がなくなります。毎朝、仏様に完全に帰依していれば、魔の入る余地はなく、自分の持っている問題は自然と解決していきます。
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●帰依の仕方

仏教に帰依するには、動機の上中下によって三種類の仕方があります。

(1) 良い来世(お金持ちに生まれたい・美人に生まれたい)を得たいいという動機から仏教に帰依すること。
(2) 二番目は輪廻それ自体から逃れたいという動機から帰依すること。
(3) 三番目は全ての衆生を苦しみから救いたいと思って帰依すること。

 最初の二つは自分のために仏教に帰依していますが、三番目の帰依の仕方は他人のために行っているので、その功徳は量り知れません。

 命あるものは我々にとって大切なものです。我々の食べ物、寝場所、着るもの、教養、すべてたくさんの命あるものたちのお世話になっています。私たちの快適さは全て命あるものによってもたらされています。どこかに行くにしても、一人ではどこにく行くことができず、他者の助けがあってはじめて行くことができます。一粒のお米にも命あるものの力が結集されています。大乗仏教の六つの究極の行い(六波羅蜜)のうち、布施、持戒、忍耐、精進はみな命あるものがなくては実践することができません。他者のために仏教をめざすためにも他者がいて初めて可能となるのです。したがって、命あるものとは我々がそこから利益(りやく)を得ることができる田圃のようなものである。意識すれば他者から多くの利益を得ることができます。

 子どもができたら大切に愛情をかけ、一人前の人にする。子どもは小さいときに受けた慈しみの気持ちを大人になってから子どもに対して持つようになります。無限の輪廻を繰り返す中で、すべての衆生はかつて母親だったことがあります。だから母親から受けた愛情を、全ての衆生から受けたと思いましょう。母親が困っているときに母親を放っておく人はいません。それと同じように困っている衆生を放置することはできないのです。したがって仏教ではたった一つの生き物でも苦しめてはいけないと説きます。慈しみの心は、このように想像力を働かせて少しずつ育てていくものです。
 慈しみの心が平和の元です。何度も反芻して心の中に育てていかねばなりません。慈しみの心を育てると心の苦しみはなくなります。心の中に上手に慈しみを育てられたら、素晴らしい音楽や風景の力を借りずとも心を平和な状態に保つことができます。

 怒りや憎しみを抱いていては苦しみの連鎖は果てることがありません。慈しみの気持ちを育てて、敵愾心や怒りを制御していかねばなりません。
 家族でもグループでも、慈しみの気持ちを大きくしていけば、そこに属する者みなが幸せになれます。

●瞑想の仕方

 瞑想には一時的な美徳と究極の美徳の二つがあります。まず、一時的な瞑想でも心が安定し、健康になります。お坊さんにならなくとも瞑想することはできます。
 まず、初心者は心を安定(奢摩他)させる必要があります。身の危険のないところ、静かなところで観想する必要があります。
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 まず、あぐらをかいて足の甲を太股の上にのせてください(結跏趺坐)。目は鼻の先を見て、半眼にし、頭を少し下に向け、背骨を伸ばします。左手は上、右を下にして膝の上におき、脇は締めません。こうすると身体エネルギー(ルン)の活動が緩やかになります。観想の対象はそれぞれの好みで決めていいのですが、お釈迦様のお姿を瞑想するのが最もよいので、仏様を例にすると、5cmくらいの大きさの仏様が眉間より少し高い位置にあると観想します。仏様の質感は少し重くて輝きがある感じで。重いと心が散漫になることを防ぎ、輝きは眠気を覚ます効果があります。

 心は日々移り変わる花の色のように安定していません。怒りが強い時には慈しみの心を観想し、執着が強い時には執着の悪徳を観想します。無知が強ければ十二縁起を観想して無知を消していきます。慢心の心が起こってきたら自分はまだまだ知らないことがあると考えます。いろいろと考えすぎて心が不安定になっているとき、眠れない時は、吸う息はく息を数えるのが有効です。

 仏教徒でなくとも悩んでいたり、心が迷っている時にはこの数息観(すそくかん)が効果があります。悩んでいる時はじつは悩みの対象について考えない方がよいのです。だから悩んでいる時は数息観をしましょう。

 仏像を瞑想するとき、目でものを見ようとすると、心はころころかわっていくので、その状態を保つことは難しいです。仏様をずっと見るのではなく、見た後には視点を落とします。瞑想することは目で同じ場所を見ることではなく心を一点に集中することです。なので目をつぶった方が集中できるという人はつぶった方がいいです。心は躁状態とうつ状態の二つの方向にふれて対象から離れようとします。うつ状態の場合は意識は黒い布をかけたように沈み、眠り込んでしまいます。なので、心がうつっぽい時には朝日を想像しましょう。逆に躁状態になったら、この世の苦しみを考えて、心を静めましょう。人は苦しい時には一つのことしか考えられないため集中できるからです。心を躁状態にもうつ状態にもならないようにして、一点に集中させる、まずこの基礎を身に付けましょう。同じ対象を用いて毎日行うことが重要です。
 以上は阿闍梨様からいただいた初心者のための奢摩他の口伝です。

以下瞑想に関する一問一答

問い「心を安定させる瞑想(奢摩他/ シネー)が必要な理由は?」
答え 心を安定させる瞑想(奢摩他)は他の瞑想の土台です。その土台がなければ、顕教の修行も密教の修行も進みません。基礎がしっかりしていないと、仕事がうまくいかないのと同じです。心は躁状態になったりうつ状態になったりしますが、その両方を避け一点に集中することが大切なのです。これがきちんとできたら、それだけでも結構ハッピーになります。朝起きた時から、心が散漫であったらろくなことはありません。朝、起きたとき心が集中していれば、一日もうまくいきます。私たちの苦しみの多くは心が原因で起きていてます。そういう意味で心をコントロールすることは大切です。

問い「分析的瞑想(毘鉢舎那 /ハクトン)は?」
答え 心を安定させる瞑想も分析的瞑想もどちらも大切です。心を安定させた上で分析を行うので、心を安定させる瞑想は分析的瞑想の基礎となります。この二つの瞑想を交互に行うことが大切です。

問い「瞑想は子どもの時から始めるのですか?」
答え 子どものころには理解できないので、瞑想は25歳くらいから始めます。

問い「瞑想はいつするのがよいでしょうか?」
答え 朝がベストです。朝は意識は活発に働いているけれど、夜は疲れており、一日の雑事が心に浮かんで集中できません。最初は1分からはじめて、2分、3分と集中できる時間をどんどん増やしていきましょう。

問い「呼吸の仕方は?」
答え 舌を上あごにつけると喉が渇きません。息の音がしないように、鼻からゆっくりと息をすって出します。
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COMMENT

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● ありがとうございます
セン | URL | 2016/08/26(金) 16:49 [EDIT]
先生ありがとうございます。三宝に帰依します。
半年前、引越しに伴い書物を整理したら、ほとんど仏教書しか残りませんでした。
どうしようもない男ですが、仏教の教えを我が身に照らし合わせて理解するよう努めています。すると仏教の言ってることは本当なんだなと改めて思うようになりました。
ただ苦というのは実際そうなのだから分かりやすいのですが、無常・無我というのが実感として理解できません。
また本物のお坊さんに会う機会があれば質問してみたいと思います。
● 早稲田大学仏教青年会
マサムネ | URL | 2016/08/26(金) 20:53 [EDIT]
青年会について、門外漢にて無知ですが歴史も豊かでらっしゃることでせうから、機会を得て後世に伝えられたら素晴らしいことかと存じます。門外不出なれば、御放念下さい。

あて、差し出がましくありますが、もうコチラの法話に問いの多くがあるように思います合掌。
仏門に「脚下照顧」の掲示が多い理由を知り難くありましたが、御仏縁により知る果報に恵まれましたね。

「仏教に帰依するには、動機の上中下によって三種類の仕方があります。
(1) 良い来世(お金持ちに生まれたい・美人に生まれたい)を得たいいという動機から仏教に帰依すること。
(2) 二番目は輪廻それ自体から逃れたいという動機から帰依すること。
(3) 三番目は全ての衆生を苦しみから救いたいと思って帰依すること。
 最初の二つは自分のために仏教に帰依していますが、三番目の帰依の仕方は他人のために行っているので、その功徳は量り知れません。」
「みなさんは自分のことを大切に思っていますが、仏様は母親が一人子を大事に思うように全ての人を大事に思っています。したがって、どんな生き物に対しても同じ慈しみの心を持っているというのが仏様の美質なのです。」
「慈しみの心が平和の元です。何度も反芻して心の中に育てていかねばなりません。慈しみの心を育てると心の苦しみはなくなります。心の中に上手に慈しみを育てられたら、素晴らしい音楽や風景の力を借りずとも心を平和な状態に保つことができます。」

シラユキ | URL | 2016/08/31(水) 09:55 [EDIT]
>千葉くん
よんで下さってありがとうございます。仏教の教えとは、自らを毎日観照してすこしずつでも人格をいいほうへ陶冶していくことにつきると思います。やるしかないんですよね。

>マサムネさん
仏教青年会は百年前は非常に盛んな運動だったのですが、敗戦後は戦争に協力的だったということでともにアウトになってしまいました。政治利用されなければ仏教というのは実に理性的な自己陶冶の手段なのですが。

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