白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2016/09/01(木)   CATEGORY: 未分類
「子孫が語る岡田鴨里(鴨里シリーズ5)」
 怒濤の八月が終わり、九月はカンボジアに観音様の調査旅にでた。カンボジアツアーについては後ほどあげるとして、帰国した後の9月11日に淡路島(洲本市総合福祉会館 多目的ホール)で行った講演旅行について先に述べたい。

 講演の題目は「子孫が語る岡田鴨里」

 開催主体は「益習の集い」さん。益習の集いさんのご配慮で、神戸新聞に告知記事をのせて戴いたため、鴨里にゆかりの方をはじめとして多くの方がきてくださり、そこそこ満席になり、会長三宅先生のところに送りつけた拙著『ダライ・ラマと転生』も完売した。
 
私がはじめて淡路におりたったのは、1998年に明石海峡大橋が開通して三ヶ月後のことであった。祖父母(鐵郎・いま)は淡路人であるが、100年以上前に大阪→東京と移住した結果、私の世代になると一族は淡路とは完全にきれており、その時、淡路に訪れるべき一人の知り合いもなかった。私は、完全な異邦人であった。

 とりあえず役所にいって原戸籍を探し(東京でもとりよせられるが現地でとりたかった 笑)、淡路文化史料館を訪れて関係する時代の史料集や目録を購入し、石濱純太郎先生の菩提寺遍照院に突撃し、石濱鐵郎のお墓がないかうかがった。しかし、遍照院の奥様によると、江戸末期のお墓は随分整理してしまったとのことでてがかりは得られなかった。

  しかし、2013年11月に四国大学の太田剛先生の知己を得て、先生がご先祖からのコールを受けるに及んで事態は一気に動き出す。 翌年3月、太田先生のご命令により、鴨里の墓、生家、屋敷跡などをまわり、鴨里の墓をまもる栄福寺様を訪れたところ、住職様より、鴨里四代の史料が関東のどこかの博物館に寄贈されたことを聞いた。よせばいいのに、問い合わせると神奈川県立博物館に史料はあり、様々な困難を乗り越えて、今年一月にすべてをデジタル化した。

 しかし、その後どうするか。私はチベット史の研究者であり、日本史はまったく専門外。ここは郷土史家の方々のお力をということで、淡路の文化資料館を初めとして、淡路や徳島の歴史研究会をネットで探しては手当たり次第に電話したが、どこも興味なしとの冷たい応え。最近の郷土史研究とは自分の調べたことを発表しあう場となっており、みなで一つの研究を行うような態勢にはないらしい。

 しかし、今年三月、太田先生から「益習の集い」さんをご紹介戴くと、私にとっての淡路は一気に顔のある、それもやさしい顔をした人々の世界となった。五月に行った歴史ウォークではじめて益習の集いのメンバーのみなさんと出会い、みなさんが恩讐を越えて庚午事変その他淡路の歴史に興味をもち、岡田鴨里にも好意的なことに驚いた。

 しかも、鴨里のバネル展まで開いて下さり、そこには鴨里の実家の砂川家につながる情報や鴨里の墨跡をもつ人などから様々な情報がもたらされた。栄福寺様もいろいろな史料をよせて下さった。

 今回の旅のクリーン・ヒットは、父方の石濱家の旧家屋の現状についてご存じの方と知り合いになれたことである。
 鴨里の曾孫イマと結婚した私の祖父、石濱鐵郎は石濱徳衛門の子孫であり、徳右衞門は砂川家文書や、「須(洲)本庶士席順」によると、洲本の奉行所の町手代という身分にあった。明治の世になって武士が年金生活者になった時、奉行所つとめは九等士族という最下級の士族になったのだが、これは「ぎりぎり士族に認められたのでなんとかなった」という家伝とも一致する(笑)。
 
 益習の集いの事務局の高田さんは、洲本の古地図で石濱徳右衞門の屋敷のあった場所をみつけて下さり、歴史ウオークの終了後に、「近いですからご先祖の住んでいた場所に行って見ましょう」とつれていってくださった。そこにはオシャレなおうちがたっており、私が「ここにお住まいの方は石濱家と関係する方ですか」と伺うと、「さあ関係ない方でしょう」との答えに、ちょっと寂しい気持ちになった。しかし、会長先生はその時、その家の表札のかなり珍しい名字Kから、「ああたぶん自分が女学生だった時の音楽の先生だ。機会があったら聞いてみよう」と思ったそうである。

 そして、今回の講演会にこの家にお住まいのK先生が来て下さったのである。なんでも、つい十日前に開催された南淡路音楽祭で三宅会長がばったりK先生と再会し、やはりそのお宅であることを確認し、この講演会のビラを手渡してくださったのだという。偶然の出合いもすごいが、きてくださったK先生もすごい。

 ご先祖様、相変わらず絶好調である。

 K先生が14才だった60年前、江戸時代からの屋敷は壊され、その姿はK先生の記憶の中にしかない。先生はかつての庭にあった石灯籠や家の門の写真をもってきてくださった。
石濱フル写真

 私「ちょちょちょ、門に朝日新聞って書いてあるのはどうしてですか」
 K先生「オヤジが新聞販売店をやっていたんです。でも胃癌になって店はしまって私は継いでません。」
 さらに、「明日もし時間があるのなら、記憶によって間取りくらいは書けますから拙宅にいらっしゃいませんか」とのお誘いを受ける。

 そこで一夜あけて、三宅会長とともにK先生のもと訪れると、何とK先生は土地の登記簿を探し出してくださり「おじいさんの名前がありましたよ」と示してくれた。
 確かにそこに転載された昔の登記簿には祖父、石濱鐵郎の名が見える。
証拠写真は↓
登記簿

 今まで、戸籍や古文書に徳右衞門の名前があっても、本当にご先祖なのかという気持ちがどこかにあったが、祖父の名前がここにあるということは徳右衞門はやはり私のご先祖なのだ、という実感がわいてくる。

 ここには江戸時代ご先祖が代々住んでいたのだ。

 K先生は「庭のあのあたりに水琴窟があったんですよ。壊れて音がしないので、ほってみて割れたカメがでてくるまできづきませんでした。あと、玄関の脇に棕櫚の木がありました。登記簿をみると洲本病院を開いた方が一時期ここで診療所を開いていたみたいで、その時2階が建て増しされ、玄関に受け付けのようなものがつくられましたが、この増築した部分は元からあるものとぜんぜん建材が違うんですよ。
 そうそう、台風23号で近くの河が氾濫した時も、ここと隣の家だけは水につかりませんでした。しっかりかさ上げされていたんですね」と60年前の記憶をたどって下さった。

 K先生「この靴脱ぎ石はたぶん石濱家の頃からあるものだと思います」
 つまりこの石の上でご先祖がなんども草履を脱ぎ履きしたのかっ。と石をなでまわす。
 江戸時代父方の家系はここに住んで徳島の蜂須賀家に仕えていて、明治の世になり武士の身分がなくなると同時に島を飛び出していった。私の祖父母は淡路人であるが、その子供たちはみな出先で伴侶をみつけて生まれた子供たちはみな淡路島ハーフになり、その子供たちが結婚するとさらに祖先の土地から離れていく。グローバル化である。

 私はすっかり根無し草になってしまったが、ここ淡路に戻るとしっかり地に根付く感覚が蘇ってくる。今や私は異邦人ではない。老後にこの土地に移り住んでみようかな〜とシミュレーションしてみると、歩いていける近くにイオンモールもあるし、ヘリポートつきの大病院もある。海水浴もできるし温泉もある。悩むわ〜。

 話変わって高松でチベットに関連した講演会をいたします。

日時 10月22日(土) 13:30 〜15:00
場所 高松市歴史資料館 (サンクリスタル高松3階第一集会室) 
主催  讃岐村塾

演題「天空の聖地チベットの歴史と文化」


内容解説: ヒマラヤの向こうにあるチベットは、古来より人々の心を惹きつけて止みませんでした。世界を征服したモンゴル帝国、大清帝国の満洲人の皇帝たちはみなチベット仏教徒でした。19世紀後半の探検の時代は、チベットの都ラサに到達するのが、世界各国の探検家の夢でした。 チベットはなぜ人々をひきつけてきたのか、チベットはどのような場所なのか。その自然と文化の要であるチベット仏教について、美しい写真とともにわかりやすく説明します。
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| | 2016/09/13(火) 15:43 [EDIT]
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● I先生へ
シラユキ | URL | 2016/09/13(火) 22:22 [EDIT]
武士はフルネームで地図に名前が入っているので、居場所を見つけやすいですよね。うちも下級武士とはいえ名前入っていて助かりました。淡路は空襲がなかったので区画まで昔のままでした。
● 拝読
マサムネ | URL | 2016/09/15(木) 22:57 [EDIT]
祖霊との御縁を奉じられて素晴らしいことであります。

寸志替わりにお耳汚し二題。

淡路の諭鶴羽山系は修験道の故地、そして野生の桃が現代も自生するとか。
http://sitakisou.blog.fc2.com/blog-entry-516.html
チベットも野生桃があるように伺いますが。

讃岐の烈女
http://archive.fo/iKOTB
讃岐は志度寺の海女伝説以来の烈女の地です。
● 御果報
マサムネ | URL | 2016/09/17(土) 06:16 [EDIT]
御祖霊の御果報でしょうか。
喘息研究の進展があったようです。
吉祥に花を添へることになれば、と存じます。

ぜんそく:発症の仕組み解明 血管にたんぱく質 千葉大
毎日新聞17日
http://mainichi.jp/articles/20160917/k00/00m/040/142000c
ぜんそくなど重いアレルギー疾患を引き起こすたんぱく質を発見し、発症の仕組みを解明したと、千葉大の中山俊憲教授(免疫学)のチームが16日の米科学誌サイエンス・イムノロジーに発表した。このたんぱく質の働きを止める抗体を投与することで根本的な治療が期待できるという。
 ぜんそくは気管支などが炎症を起こし、気道がふさがって呼吸困難を引き起こす。アレルギー反応を起こした病原性免疫細胞が血管の外に出て、炎症の原因となることが既に判明していた。
 研究チームは、この免疫細胞が血管の外に出る仕組みに着目。アレルギー反応によって血小板から放出される「ミル9分子」というたんぱく質が血管内側に付着し、免疫細胞の通り道を作っていることを突き止めた。ミル9分子の働きを止める抗体を作ってぜんそくのマウスに投与したところ、免疫細胞が血管の外に出なかったという。
 重度のぜんそくの治療は、免疫細胞の働きを弱めるステロイド注射など対症療法が主流だが、患者の免疫力が低下する恐れがあり、効果がない例も近年、多く報告されている。中山教授は「患者の不安が減る画期的な治療薬の開発につながる」と話している。【渡辺暢】

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