白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2017/02/22(水)   CATEGORY: 未分類
エリオット・スパーリングの死
 おそらくは1月27日に著名なチベット史家のエリオット・スパーリング氏がニューヨークで急逝した。
 なぜ「おそらく」なのかというと、亡くなった際、誰も近くにいなかったからだ。
 私が彼の死を最初に知ったのは、2月1日の夜。Aさんが彼の死をつげるどなたかの記事をリツイートした時だった。しかし、その後、その元記事が削除されていたので、彼はバリバリのフリーチベットの活動家だったこともあり、最初は、中国が嫌がらせでもしたのか、〔トランプ大統領のいうところの〕フェイクニュースだったのかと思った。

 しかし、同じ2月1日の夜、アメリカ在住の民主活動家、曹雅学(Yaxue Cao)が、「27日からスパーリング氏と電話もメールも通じなくなり、エネルギッシュに多くの人とやりとりしていた彼からは想像もつかないことであったことから、安否確認をすると、20時間前にイリハム・トフティ(民族大学の教授で「国家分裂罪」で中国で服役中。その解放にエリオットが活動していた)の娘から涙声の電話があり、スパーリングの死を確認した」という旨の投稿があった。

 ネットでは、彼の死をこのような形(公式発表のない状態)で語り合うのはよくない。という人もあり、この記事もすぐに削除されたが、しばらくしてルービン美術館のKarl Debreczenyが、公式にその死を告げるに至り、拡散した。
 この時、スパーリングの名前でツイッターを検索すると、難民チベット社会よりも(彼らは遅れて弔意を表明した)、ウイグル・中国の民主活動家の弔辞がまず並んだことから、はからずもスパーリング氏のチベット史学者にとどまらない広範囲の活動がしのばれた。

 彼を偲ぶ会は3月11日のチベット蜂起記念日ににニューヨークで行われる。あの3月11日に。
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 チベット学者たちは、チベット文化を抑圧し消滅に向かわせている中国政府に等しく不快感をもっている。しかし、それをどのような形で示すかは人によって様々なかたちをとる。

 たとえば、人類学者の場合は、中国を怒らせて本土で現地調査ができなくなれば研究がなりたたくなるので、自ずと発言にブレーキをかける。本土に入れなくても痛くもかゆくもない仏教哲学の研究者は,チベット仏教の伝統を支えることが、長い目でみればチベットを存続させることになると考え、政治については「世俗のこと」として関わらない人も多い。

 しかし、歴史学者であったスパーリングは実にはっきりとチベットへの支援と中国への抗議を表に出した。
 非暴力で自由をかちえようとしているチベット人にとって、時には暴力的な手段で抵抗の意志を訴える人のでるウイグルとの共闘は、慎重になる人も多い。しかし、スパーリングは迷わずウイグル人の研究者の釈放運動に飛び込んだ。天安門事件以後海外に逃れた中国人の民主活動家とも親しく交わっていた。

 また、現在ダライ・ラマ法王とチベット亡命政権は「中道のアプローチ」、すなわち植民地でも独立国でもない、完全自治の中道をめざしているが、スパーリンク氏は「独立」の主張を続けるべきだとの立場をとっていた。

 彼はものいう歴史学者であった。

 スパーリングが、チベットという一つの民族が消滅することを座視せず全力で立ち向かっていった一つの理由は、彼のユダヤ人としての出自に求められよう。
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 北京在住のチベット人作家ウーセル(唯色)さんは、スパーリングがインディアナ大学を定年でやめる際の記念論集(2014年)に次のような言葉を寄せている。

 エリオットは厚い英語の本を抱えていた。それはスターリンの粛正でなくなったユダヤ系ロシアの詩人Osip Mandelstam(1891–1938)の妻の回想録であった。私がOsip Mandelstamの詩や散文に親しんでいたことを、スパーリングは非常に喜び、後に作者に悲劇をもたらすことになる詩を二人で一緒によんだ。

 わたしたちは足の下に祖国を感じないと生きていけない。
 10歩離れればわたしたちの言葉は聞き取れない
  いかなる会話も、いかに短かろうと、
  クレムリンの山男の方へひきずられていく


 ウーセルさんはチベット人であるが、漢人の中で教育されたため、チベット語ではなく漢語で表現する作家となった。しかし、スパーリングはウーセルさんには決して漢語を用いず、チベット語で話し、彼女のチベット語会話力が衰えないようにしていたという。

 抑圧的な中国共産党のチベット政策はいわずもがな、16億人の漢人の海の中で600万人のチベット人の文化は同化の圧力にさらされている。スパーリングがこのような人たちのために戦うエネルギーを持ち続けられたのは、やはり第二次世界大戦中に民族ごと根絶やしにされかけたユダヤ人としての民族の記憶があるからかもしれない。

 元SFT (Student for Free Tibet)の代表テンジン・ドルジェの弔辞はスパーリングのなくなる直前の様子を伝えてくれる。

エリオット・スパーリングを忍んで 2017年2月8日

 エリオット・スパーリングの死よりも大きな悲劇を思い描くことはできない。まだ66才だった。生命力、健康、目的意識をつねに発散しており、死とは対極のイメージの人だった。2014年にインディアナ大学での教授生活から引退し、生まれ育ったニューヨークに戻り、ジャクソン・ハイツにアパートを買った。彼の家は窓以外すべての壁が本棚で覆われていた。アパートのふりをした図書館みたいなところに暮らしての忙しい隠居生活を、彼は楽しみにしていた。

 エリオットはチベット・中国関係史の世界的な権威であり、33才でマッカーサー天才助成金を受け、それから30年かけてチベット学を定義した作品群を生み出した。元朝、明朝、清朝とチベットとの関係について論文を書くことを通じて、彼は漢文とチベット語史料の双方をもちいて二つの国の関係を特徴づける独立性と分離について光をあてた。彼が現れるまでは西洋の知識人は、チベット語史料にアクセス出来なかったため、中国人の目を通じてチベットを見ていた。中国語と同様チベット語も流ちょうなエリオットは、古い時代の中華思想の物語を解放し、文字通り一変させたのであった。彼の論文はこの分野にとって非常に重要なものとなり、中国・チベット関係について一ページでも何か書こうとする学者は、その業績を参照しないことはなかった。彼はチベット・中国関係史のヘーゲルだった。
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 当然のことながら、私たちはこの偉大なる学者がチベット世界の第二の首都、ジャクソン・ハイツに居を構えてくれたことに非常に感謝していた。中国領事館へのデモで、チベット・ハウスでの企画展のオープニングで、リトル・チベット・レストランにおける詩の夕べで、時には私のアパートでの夕食の席で彼と会っては心が浮き立ったものである。いつも彼はパーティの知的な核として人気者だった。我々は芸術から政治、言語学にいたるまでのトピックについて彼に質問を浴びせかけた。彼の教養は歴史に止まらなかったからである。彼は底なしに気前がよく雄弁で、もっとも好奇心をかき立て、洞察に満ち、徹底的な答えを我々に与えてくれた。彼との会話は本質的にゼミであった。クイーンズ地区に住む我々チベット人の活動家や芸術家の小さなサークルの中で、エリオットは即座に第二の教授人生を送り始めた。それは大学という枠にははまらない生涯教授枠であった。我々は彼をそう簡単には引退させようとしなかった。

 先週私はアジアでの旅をおえ、ニューヨークに戻った。私は彼と会うのを楽しみにしていた。そう、彼のお気に入りのレストランだったリトル・チベットとかでばったり出会うのを。そこは彼の家から歩いて行ける距離にあった(実はエリオットにとって全ては徒歩圏内だった。大概は徒歩でいった。時にはマンハッタンですら)。彼が昨秋訪問教授としてウィーンに行く前には、独特のせっかちな感じで、「会合して戦略を話し合おう。我々は孔子学院に対する戦いを強化する必要がある」と言っていた。

 彼は中国の孔子学院を非常に懸念していた。孔子学院は、文化を保護するという装いの下に我々の大学に侵入し、チベット、台湾、天安門について議論することを封じる静かなキャンペーンを行っていた。エリオットはStudent for Tibetの代表ペマヨーコと孔子学院反対のスタッフとともに座り、アイディアを出し合った。

 彼のアカデミックな地位からいえば彼は象牙の塔にいるのが自然であったが、彼は人々との真の連帯者となり、ゆるぎなくチベットの自由を求め続けることを選択した。エリオットは我々と活動家の塹壕に入り、街頭やデモに姿を見せ、つねにより大きく大胆にチベット・サポートを行うように励まし続けた。ブロンクス訛りのチベット語で、彼は我々に「チベットの歴史をもっとまじめに学びさえすれば、チベットが再び自由になることを疑うことはないだろう」と告げた。

 北京政府を恐れを知らずに鋭く批判した。中国入国を禁じられる恐れがありながらも、エリオットは言葉を飲み込むことも、筆を曲げることもしなかった。彼が北京で教鞭を執ったときですら、多くの優秀な学者を去勢してきた自主規制の罠におちることはなかった。北京政府のチベットにおける残酷な統治に反対する一方、彼はダラムサラにあるチベット亡命政府の過度に融和的な態度にも批判的であった。チベットの指導者に対する彼の挑発的な言辞は我々を居心地悪くさせたが、彼はチベットについて本当に心配している教師として、まさに不快な領域におしやることによって我々を目覚めさせ教育するために、インパクトを求めていたのである。
 
 近年、エリオットは終身刑を受けたウイグル人知識人の友人、イリハム・トフティのケースに関わっていた。トフティがアムネスティの「良心の囚人」に選ばれること、サハロフ賞をはじめとするさまざまな賞にノミネートされるよう助けることに中心的な役割を果たした。トフティの娘、 Jewherを庇護してその福利厚生と教育を支援した。 Jewherの言葉を借りると、エリオットは彼女の「叔父さん」のようだった。彼がイリハム・トフティや Jewherに対してみせた愛と寛大さはエリオットが全ての人に対してみせたものであった。彼は確かに学者としての足跡を残したが、彼の巨大な知性は教師としての無限の優しさと友人としての献身にマッチしていた。彼は人生を他人を助けることに捧げた真に利他的な人間であった。

 エリオットの死は我々の心に大きな空洞をあけ、チベット学の世界にも亀裂を残した。友人の一人Christophe Besuchetはいみじくもこういった。「大きな図書館が倒壊したみたいだ。」そうであっても、エリオットはすでにかなりなことを成し遂げていたことを記憶する価値がある。もし仏教的な見方をすれば、休憩をとる時がきたのだ。66年の人生の中で、エリオットは、たくさんの生を生きた。タクシーの運転手、ヒッピー、学者、導師、活動家、叔父さん、父親、どの顔も他の人より、生産的で意義深いものであった。彼はその精神を我々の中に深く刻みこんでいった。ある意味では彼はまだ生きている。一つの図書館は焼け落ちたが、彼の言葉がいまなお息づいているところに何千もの図書館があるのだ。


 私も彼と同じ歴史学者なのでこの弔辞に見る彼の生き方のいくつかは、非常に共感できるものであった。
 彼が研究をはじめた時、「西洋の知識人はみな中国人の目でチベットをみていた」のと同じように、私は中国により近い日本で、マルクス史観が全盛の時代に、漢人的な世界観を当たり前と思う環境の中で研究を始めた。世の中は、中国が宣伝するとおり「チベットは中国の一部」という思考が浸透しており、私も大学に入って専門の研究をするまでは、チベットを中国史の一部くらいにしか考えていなかった。

 しかし、チベット語史料が読めるようになると、そこには漢文史料からイメージされるものとはまったく異なる景観が見えてくる。チベットは中国の一部どころか、その仏教文化は、モンゴル人・満洲人が中国の皇帝をつとめていた時代、皇室の宗教として非常に尊ばれ勢力を有していた。
 今でこそ、モンゴル語・満洲語を用いての研究は当たり前になったが、漢文史料に依拠する研究者の多かった当時の東洋史の学界の中ではなかなか孤独な日々であった。

 日本のリベラルは、歴史的に日本政府やアメリカ政府を仮想敵とし、アジアの社会主義国を潜在的同盟者と考えることから、メディアもつい最近までチベットの人権問題をとりあげることはなかったこの状況は2008年以後ずいぶんよくなった)。また、マルクス史観は宗教を蛇蝎のごとく嫌うので、ダライ・ラマがかつて歴史的に有してきたパワーはなかなか日本人に理解されることはなかった。なので長いこと私の目標は、大衆の意識を変えるのは無理でも、せめてアカデミックな領域にいる人にだけでも事実を伝えようと、論文を書き続けてきた。私が専門書でも一般書でも人より生産的であるのは、英語がヘタクソでもなぜか英語論文を書いてきたのは、その使命感からきたものだ(。

 私がエリオットとはじめて会ったのは20代後半で参加した国際学会の席であった。彼は当時から薄毛で、早口のニューョーク英語は私には理解できなかった。それからも国際学会の席で何度か直接会い、また間接的にはブログや論文を書くときに彼の著作を参照したりなどして、いつもその名は身近にあった。

 2008年の北京オリンピックの年の3月にチベット人が蜂起した時は、いちはやく音頭をとって、中国政府に弾圧を辞めろとの声明を出しチベット学者の署名を集めた。2014年にウランバートルで開かれた国際チベット学会では、チベット・モンゴル条約締結100周年のパネルを統括していた。チベット「独立」を埋もれさせたくないという彼の気合いはバリバリ伝わってきた。
 自由になったチベットを見ることなく亡くなった彼の死はただただ悲しいものだ。

 最後に、2008年の声明を出した際、彼から受け取ったメールを記念キャプチャー。こういう短い文で多くの人とやりとりしていたのだ。

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