白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2017/09/19(火)   CATEGORY: 未分類
ただの亀ではなかった(鴨里シリーズ6)
  会長の家で目を覚ますと、外は小雨である。台風18号は九州に上陸しているようで、本日の目的地のうち最初の天明志士の碑のみが露天なので、会長先生は参加者がぬれないように、急遽碑文下の大宮寺の位牌堂をあけてもらう交渉をされている。
 会長先生曰く、「自分が、自分が、という人がおらず、皆が自然に動いて協力してくれて本当に助かります。」。

 今回バス旅行は訪問先の三カ所でも近在の方にスポット参加していただける構成になっており、事務局の高田さんは、「町内会でチラシを配布しましたが、農繁期でもあるし、何人集まるのか本当に読めない」と心配しておられる。
わたしは会長先生のお車にのせていただいたので、最初のスポットである天明志士の碑に直接いく。今回「益習の集い」の役員の方たちは、そろいのハッピをあつらえており、何か本格的になってきている。 

最初の訪問ポイントは「縄騒動」と呼ばれる1782(天明二年)におきた淡路最大の百姓一揆の蜂起のあった場所。四国大学の太田剛先生によると、当時悪徳役人が税として収めさせていた縄の品質管理をいやがらせに細かくしたため、百姓たちが蜂起したのだが、役人の方が悪かったので、一揆を呼びかけた百姓(才蔵、清左衛門)たちは罪を問われないと決まった。にもかかわらず、徳島藩からの連絡が遅れたため、二人は処刑されてしまった。人々は自分たちのために命をおとした才蔵たちを忘れないため、人形浄瑠璃で語り継いでいたが、さすがに幕末にはみな忘れかけていたところ、明治の世になり自由民権運動が勃興すると、地域の百姓一揆は民主主義精神の萌芽として再評価されるようになり、ここ淡路の縄騒動の才蔵たちを顕彰する碑文が、板垣退助ならびに蜂須賀最期の殿様茂韶公によって建設されるとなったという。
天明志士子孫

 何と才蔵の直系の子孫鯉森さんがお見えになられていた。人々のために命をなげうった方のご子孫だけあって穏やかで性格のよさそうな方であった。写真は碑文の前の太田先生と鯉森さん。

 次の目的地である延命寺においては、再び太田先生から沼田存庵(1825-99)の書「死人口上」についての解説を伺う。存庵は鴨里の実兄砂川藍谷の弟子で、華岡青洲に西洋医術も学び、彼の四男ならびに門下生11人は新政府の私費留学生となって明治維新に貢献した。
死人口上

 存庵の弟、苔堂はイギリスの外交官アーネスト・サトウ(1843-1929)の日本語教師で、アーネスト・サトウの記した『一外交官の見た明治維新』にも登場する人。その関係でサトウは徳島藩主にも謁見している。沼田存庵のパパ丈庵は漢方医であったが、ご先祖、鴨里が伝を書いている。

 で三番目のポイントがいよいよご先祖の眠る栄福寺である。まず、鴨里、真、文平の岡田家三代のお墓のある山にあがる。三年前はじめて太田先生とこのお墓をおとずれた時は、墓は竹林の中にうもれていて、文平の墓石は真っ二つにおれて地面に落ちていた。しかし、ご住職はその後、このお墓を整備してくださったため、今回は見違えるように美しく生まれ変わっていた。ふもとのため池と掃部の地が見渡せるように、周辺の竹も刈られていた。
鴨里真文平墓

 ここで鴨里の孫、真の墓誌を見ていた太田先生が「よくみたら真の墓誌は存庵の書です」とおっしゃる。存庵の書をみたあとでここにきたので結びついたのであろう。云われてみれば筆跡が同じだ。

 続いて本堂で賴山陽と岡田鴨里の歴史的意義と、ご先祖お導きネタについて私が話す。高田さんの懸念にも関わらず、本堂は人で一杯。台風で農作業できないもんな。
 
 ご先祖パワーネタについてのみ要約すると、曾祖父終焉の地は東京浅草の海禅寺である。このお寺は振袖火事で焼けたあと、徳島藩主の蜂須賀公が再建資金をだしたことから、阿波様寺と呼ばれていた。しかし、関東大震災で焼け、東京大空襲でさらに焼けもう何も残ってないだろうと放置していたのだが、今年に入ってふと訪問しようという気になった。五月、アポイントも何もとらずふらっとお寺にはいると、丁度ご住職が禅堂に風をいれていたので、突撃取材をした。すると、江戸時代の過去帳は燃えたものの写しがあるので調べてみますと暖かいお言葉を頂戴し、この経緯は前のエントリーで話した。これからあとは書いてなかったが、数日後に、本当に曾祖父真の過去帳の記録をその部分だけコピーして送って下さったのである。
そこには、明治九年

覺心院尚古顒斎(ぎょうさい)居士 十一月一日死
岡田真殿事元阿州旧臣
朱引内ニ付智光院エ埋葬佛×
之義者当山ニ而可致事


と書いてあったため、智光院(昔は海禅寺の境内にあったが、現在は高円寺の方へ移転)にうかがつた所、こちらは戦災に遭わなかったため、当時の過去帳がそのまま残っていた。
 智光院のご住職によると「院号がついているということは高い格式で葬られた」とのことなので、真は若干30才でなくなったにもかかわらず、大学者鴨里の孫ということで、大事に送られであろうことが分かった。

 そして、6月11日、益習の集いの会長先生が所用で上京された。上野の林光院に蜂須賀家の江戸屋敷からうつしした唐門があるので、それをご覧になりたいというので、「笹乃雪」で昼ご飯した後、海禅寺も上野から歩いて15分なので、蜂須賀ゆかりのお寺だから参拝してみませんか?とお誘いしてみた。
 ご住職によると海禅寺の境内は江戸の頃よりもはるかに狭小になっており、墓地もみな整理して蜂須賀家のお墓は昔は大きな納骨堂があったが今は老朽化したのでそれも取り壊したとのこと。
 前のエントリーでも書いたように、このお寺には梅田雲濵のお墓と、亀にのった享和二年(1802)の碑文があったので「会長、会長、この亀古いんですよ」とご案内する。

亀の碑文はかなり損傷が激しく、戦災や震災に何度も焼かれた感じであり、後ろの方は剥落がはじまっている。会長は「村井道明さんが亀趺のついた碑文を研究されているので、喜ぶわ」と写真をとりまくっていた。すると翌日、会長から
「村井さんによるとその亀碑文は10代目徳島藩主重喜の奥立花氏の墓ですよ。屋代弘賢(1758-1847)の著した『白金荘記』(蜂須賀家家の白銀台の屋敷の様子について記した書)という稀覯本に、この碑文がで出てくるそうです」とのメールがきた。村井先生は「かつては蜂須賀家の屋敷内にあったその碑文は、今どこにあるのか探していた」とのことで、そんな亀であったとは。相変わらずご先祖様が絶好調である。

 私の次は奈良の仏師の松永忠興さんの講演。栄福寺様が所有のお釈迦様をこの方の工房に修理にだされたところ、顔と胴体は平安仏であることが分かった。そこで、平安仏の部分は白木のままにして、朽ちた手足の部分は補いきれいに彩色し、光背、台座ももちろんきれいに色つきで新調し、古い姿を残すと同時に信仰の対象としても痛々しくない姿に復元した、というありがたいお話。

 さらに面白いのは、その過程で本尊様の脇士となつていた十二神将もすす払いをしてみたら鎌倉時代のものであることが判明したという。栄福寺の歴史よりも古い仏像があるということは、過去の栄福寺のご住職が近所で廃寺になったお寺の仏様をひきとって、その時代時代の修理をほどこして代々お祀りしていたとしか解釈しようがない。それは竹藪にうもれていた鴨里三代のお墓を整備してくださった当代のご住職の精神にも通いあう。

 何度もやけた海禅寺とは異なり、戦災のなかった(1995年の震災はあったけど)淡路島には、まだまだ古いものが埋もれている可能性がある。ご住職は修復なったお釈迦様のご真影と、境内にあったヤマモモの木からつくった念珠を参加者に下賜してくださった。
念珠平安仏

 このあと、洲本でうちあげがあったのだが、時間があったので海をみにいったら、サーファーが五人ほど波をまっていた。瀬戸内海だし防波堤内なのでまともな波はきていなかったが、翌日NHKつけたら洲本港で台風中継をやっていた。本当に一日ずれたらこの企画は悲惨なことになっていた。会長先生が「何かに護られている」というのも宜なるかなである。

 うちあげ後、太田先生に徳島空港まで送っていただき、一時間前に空港についたものの、台風で徳島にくる飛行機が羽田にも戻っていないというふざけたアナウンスがある。「ちょっと待て、これ最終便だよ。これが神戸空港なら新幹線で帰ることもできるけど、徳島空港だよ、どうするんだよ、ご先祖様、何とかしてください」とお願いしたら、とりあえず一時間半以上おくれて飛んでくれて、零時ちょっと過ぎに家にたどりついた。

 ご先祖様ありがとうございました。そして、関係者のみなさまお疲れ様でした。
 
 
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