白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2017/10/17(火)   CATEGORY: 未分類
アジャ・リンポチェ自伝出版 記念講演会
 15日はアジャ・リンポチェの自伝出版 記念講演会を聞きに、清風学園に行った。アジャリンポチェは亡命前は青海クンブム寺の座主をつとめていらしたため、そこの住人の言葉であるモンゴル語とチベット語と、漢語に堪能であらせられる。モンゴル語の仏教用語はチベット語からの直訳なので、モンゴル語で法話を話しても仏教を学んでいないモンゴル人だときちんと訳せないことが多いので(歴史の話なら普通の人でも通訳できる)、リンポチェは法話はチベット語でおこなわれる。今回そのチベット語からの通訳は清風学園校長 平岡宏一先生がおこなわれた。

以下、解説を加えつつ法話の全体象をご紹介する (法話の部分は青色にしてあります)。
アジャ本表紙

アジャ・リンポチェ

清風にくるのは十年ぶりです。十年前、タクツェル=リンポチェ (ダライラマの兄の尊称) が病に倒れ、タクツェルリンポチェが主催していた組織を私に引き継げというダライラマ14世の命令があり、タクツェル=リンポチェがお世話になった方々に挨拶に行けといわれてここに参りましたのが十年前です。このたびは私の自伝の出版ということでこのような機会をもたせさていただきありがとうございました。

 解説: ダライラマの兄上タクツェル=リンポチェは亡命前はアジャ・リンポチェと同じくクンブムの僧院長の座につかれていた。タクツェル・リンポチェは1950年、弟であるダライラマ14世よりも九年早くアメリカに亡命した。その後、アメリカでインディアナ大学で教授職につきつつ、チベット文化センターを主催されていた。その後、1989年にダライラマ法王事務所日本代表として日本に着任されたものの、前代表が解任内容に異を唱えて事務所の明け渡しに応じずタクツェル・リンポチェが困っていらした。その時、当時清風学園の校長先生であった平岡英信先生が新宿で不動産業を営んでいるHさんを紹介して、事務所を開くことができた。
 1990年、タクツェル・リンポチェと平岡英信校長(当時)はともにブリヤートで開催された開教300年祭に招かれ、ソ連の抑圧から解放されたブリヤートのチベット仏教界の熱狂を目撃している。この時のお話を英信先生にずいぶんお聞きしたのだが、「とにかくたくさん人がいてみなさん喜んでいた。北朝鮮の代表が同じ社会主義圏だから、良い待遇を受けられるだろうと思っていたら、〔実際は自由主義圏に復帰しての歓喜の宴だったため〕冷遇されてふくれていた」とのことであった。英信先生が発起人となって南インドのフンスールのギュメの本堂が再建されたのもこのタクツェル・リンポチェが日本代表をつとめていた際である。というわけで、タクツェル・リンポチェと平岡英信先生は昔なじみなのであった。

171015アジャ1
 アジャ・リンポチェ
 
まず、① 仏教の入門的な話をし、次に、②仏教の教えに従い、感情をコントロールするためにはどうしたらいいかのかについて話をし、最後に、③ 仏教徒として暮らしていく心がけについてお話しましょう。

①仏教の基本的なお話

仏の教えである経典や、経典に対する注釈書などの書籍群を大蔵経と総称します。この大蔵経には仏教が普及する三つのルートに従って生まれ、三種類の系統があります。
 まず、最初に成立したのは上座部仏教です。上座部仏教の大蔵経はパーリ語で記されており、お釈迦様が覚りを開かれた直後に説いた四つの聖なる真理(四聖諦)や、戒律などが含まれています。スリランカ、タイ、ミャンマーなどの仏教界ではこのパーリ語の大蔵経を奉じています。

 次は紀元前1世紀に中央アジアで始まり、シルクロード、中国、朝鮮半島、日本におよんだ大乗仏教です。このルートの中で生まれた漢語大蔵経は、顕教(哲学)と密教の経典群からなりたっています。顕教の経典には上座部の教えが含まれており、密教の教えには四タントラのうち所作タントラ、行タントラ(大日経はここに含まれる)、ヨーガタントラ(『金剛頂経』はここに含まれる)の経典が収められています。

 そして三番目に成立したのはチベット仏教です。大蔵経はチベット語で記され、その教えがチベットから13世紀にモンゴルに入り、17世紀には満洲人にも伝わり、それとともにモンゴル語や満洲語の翻訳大蔵経が生まれました。
 私が属しているのはこのチベット仏教です。

②仏教の教えに従い、感情をコントロールするためにはどうしたらいいかのか

 仏教徒は「正しいものの見方」 (lta ba) をもち、「正しく行動」 (spyod)することが大切です。
 正しいものの見方とは「物事は、ただ因果関係 (縁起) によって存在しており、永遠不滅の実体はない」という縁起の真理を理解することです。仏教は〔キリスト教のように〕造物主が人を造り、それに苦しみや愉しみを与えるなどという考え方はありません。この原因と結果の因果関係のみがあると説きます。 また「正しい行動」は非暴力(他者を傷つけないこと)であり、慈悲の心を持つ(他者の役に立つ)ことです。

 ●「正しいものの見方」
「物事は、ただ因果関係 (縁起) によって存在しており、永遠不滅の実体はない」ということは、自然界の中でも見ることができます。種が芽を出し葉を茂らせ、花をつけ、実を結ぶには、水、天候、肥料など様々な条件や原因があってはじめて可能となり、このどれか一つでもそれだけで存在しているものはありません。
 空間一つとってみても、西があるから東が設定されるのであり、中国の空はきたなく、日本の空はきれいだというように虚空を分けても、空間の側に境界があるわけでなく、我々があると思っている気持ちに応じて境界をひいているのです。
難しい言葉でいうと、ものごとには「存在の真実の姿」である「如実」( ji lta ba)と「言説(言葉や概念)によって仮に存在しているだけのもの」という「如量」( ji snyed pa)の二つの側面があります。
 たとえば、一万円札があります。この一万円は日本では十回外食ができるかもしれません。しかし、アフリカやインドの田舎に一万円札をもっていっても何も売ってもらえません。「これは価値のあるお金なんだ」といっても、「そうかお腹が空いているのかじゃあこれを一つあげよう」とか日本で手に入るものの10分の1くらいは恵んでもらえるかもしれませんが(笑)。「ありのまま」の一万円札は紙ですが、しかし、そこに人間の側で価値という概念を仮に設定しているので(仮説)、その価値は一万円れ自体に本質的に備わっているものではありません。

 ●「正しい行動」
次に「正しい行動」について話します。 愛情(brtse ba)と慈悲は(byams pa)は異なるものです。愛情は自分の子供など自分が好ましいと思うものに対して向けられる者で、限度があります。しかし、慈悲は無限です。敵をも慈しむ心です。愛情しか持たない人は敵が不幸な目にあうとざまあみろとか思いますが、慈悲を持つ者は敵すら慈しみます。
 慈悲を育むためにはまず、2段階踏むといいでしょう。まず、最初の段階では他人を傷つけないこと、人に迷惑をかけないように生きること。足るを知ることです。
 次の段階ではより積極的に「人の役にたちたい」という心を育むことです。
 人の心は好き、嫌い、無関心の三つに分かれます。「好き」という気持ちは一見良いものに聞こえますが、好きは執着に発展することがあり、こうなると良いものではないので、好きなものはなるべく自分から離して考えることです。
 「嫌い」という感情は怒りに発展しやすく、これもよくありません。忍耐の心をもち、相手に慈悲をもつように努力しましょう。無関心も困っている人の前を通り過ぎたりしてよいものではないので、関心を持つようにしましょう。好きも嫌いも無関心もすべて、真ん中の気持ち、「好きでも嫌いでもなく、しかし、関心を持つ」、平等な状態(btang snyoms)に置くようにして他人の役にたちたいと思うことが大切です。

 人間は体と言葉と心(身口意)によって外界にはたらきかけますが、意識は身体や言語を操るのでこののうち心が最も重要です。心の状態を保つためには戒律・瞑想・智慧 (三学) をもちいるといいでしょう。戒律は言葉や体を律して悪行をなさないための、これをしなさい、これをしてはならないというルールです。
 日本人は「立ち入り禁止」と紙に書いてはってあれば、みなそれを見て入らないけど、インドなんかだと、「書いてあるだけだ」と無視して入ったり、はては紙を破ったりします。ルールだけで心を統御するのはかくも難しいものです
 そこで三学の二番目の定、すなわち瞑想が必要となってきます。
 30分体を座せておくことはできますが、心はあちこちに飛んでしまいます。
こういう時には分析的瞑想(dpyad sgom)が有効です。何か一つのこと(歩く、マントラを唱える)に集中することによって、気を散らさないようにします。そして、次には外界の刺激をシャットダウンして「心を落ち着ける瞑想」 ('jog sgom)をおこなう。人は眼・耳・鼻・舌・身・意(五根)を通じて外界の刺激を受けて意識が散じてしまうので、この五根を閉じて集中する。寝ることではないですよ。

③ 仏教徒として暮らしていく心がけ

仏教には三つの門があります。普通三門というと、身口意ですが、これから話すのはそうではありません。
① 仏教徒になること 
② 大乗仏教徒になること
③ 密教の修行によって仏の境地を目指すこと
この三門です。

 ①仏教に帰依すること
この世界のありように恐怖し、仏・法・僧という三つの宝に帰依することです。仏教に帰依したら、十善(殺さない、盗まない、邪なセックスをしない、嘘を言わない、汚い言葉を使わない、言葉を飾らない、二枚舌を使わない、正しいものの見方をもつ、怒らない、執着しない)の行いを積まなければなりません。

 ②大乗仏教徒になること。
 次に、ただ人に迷惑をかけないだけでなく、一切の命あるもののために役に立とうという心をもつのが次の段階です。大乗仏教徒は他の人を救う力をもつために仏になろうとします。このような他者の救済のために覚りの境地を目指すことを菩提心とよびます。

 ③密教を学ぶこと。
 顕教(哲学)で覚りを得ようとすると、長大な時間はかかりますが、密教の修行は遠くにある仏の境地を自分の側にひきよせる修行を行なうことによって実際に仏になろうとするものです。
 まず、灌頂を受けねばなりません。灌頂はチベット語ではワンといいますが、これは「権利」という意味で、つまり灌頂は密教を修行するための権利を得る儀式です。
 顕教では仏の国(浄土)は人間の世界の遠くにあり、来世そこに生まれることを目標として修行しますが、密教では自分を仏様の姿に観想し、自分のいる場所も仏様の世界に入っているという観想(シミュレーション) 修行をします。

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質疑応答: 日本においては鎌倉時代に戒律を否定して以後、僧侶は無戒律、無修行になっています。それをどう思われますか。

このいかにも、日本仏教に対する批判を誘導するような質問に対して、アジャ・リンポチェの受け答えは非常にスマートだった。

アジャ・リンポチェ: モンゴルにおいても僧侶が妻帯することがあります。すると、信者の方はお寺にお布施してもそれがお寺のために使われるのならまだしも、妻や子供のために使われると、信仰が揺らぐようになります。結果、社会奉仕活動など人の役に立つことをするキリスト教などが勢力をもってきています。
 日本においても物質主義が盛んで、仏教が衰頽し、お寺を維持するために僧侶が妻帯していると伺っております。また、キリスト教のようなメソッドを用いる新興宗教が、伝統宗教の信者を奪っているとも。チベットでも、先代の僧院長の生まれ変わりというだけでまったく仏教を修行しない人でも高い地位につくことがあり、結果人々の信仰が揺らぐということがあるようです。私が死んでも私の生まれ変わりが探索されるのでしょうが、生まれ変わりの子がうまく育って勉強も修行もできるのならそれでいいですが、そうでなかった場合はやはり人々の信仰は揺らぐでしょう。転生相続も正しい形で(生まれた子をきちんと教育して初代の質を維持する)行なわれればいいですが、資格のないものをただ高い地位につけるのはよくないでしょう。


 つまり、モンゴルやチベットでもそういう問題はある、と仏教界が抱える普遍的な問題として相対化し、転生僧であれ、先代住職の子であれ、きちんと修行や勉強をする子を後継者にしないと仏教が衰頽するとソフトに提言されたのである。

 このあとの自伝出版記念の講演は、平岡先生とSamaya projectのYさんと熊本ボランティア講演(笑)の打ち合わせがあったので、残念ながら聞けませんでした。護国寺にもお見えになるとのことなので、予定があえばこちらで伺いたいと思います。まずは自伝を読まないと。

追記: 平岡先生がアジャ・リンポチェから聞いた話。アジャ・リンポチェの前世の初代はゲルク派の宗祖ツォンカパの父親であると信じられており、お父さんを意味するアキャa rgyaと呼ばれていた。しかし、これが漢語でうつすと阿家になってよくないと中国皇帝に云われて、a kya(阿嘉)と綴るようになったとのことである。
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COMMENT

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● 護国寺
マサムネ | URL | 2017/10/18(水) 21:36 [EDIT]
そうですか、東京でも。一般は不可なのですかね?
しかし、今回の説経および質疑応答は別の意味で仏教界には耳が痛かろうと存じます。
一休禅師だいすき日本ですから、こういうスマートな問答もっと人口に膾炙しても良い気がしますね。
貴「ダライラマと転生」は昨年より拝読。
次の転生には国際政治が絡みそうな雰囲気があり、支那でなければ大丈夫なのかな、とも心配します。
例えば、日本で転生となるなら如何になるのでしょうか。
末筆乍らアキャと阿家では、父と姑で別人になるのですね。勉強になりました。
不痴不聋,难作阿家阿翁
ばかや耳の聞こえないふりができなければ,姑や舅にはなり難い。
新婦艦に騎れば、阿家牽く姑手綱
お嫁さんがろば(艦)に乗って、姑さん(阿家)が手綱をひいている。

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