白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2018/05/01(火)   CATEGORY: 未分類
長野聖火リレー十周年で善光寺に行ってきた
4月最後の日、善光寺のW住職の発議で長野で「北京オリンピック聖火リレー10周年記念会合」が開かれた。前夜祭はまず焼き肉屋アリランではじまった。

 焼き肉の煙と複数の方のタバコによりあっというまに髪の毛や服が燻製状態。私はこのあと宿坊にかえったが、残りの方たちは雪っこという酒を飲み続け大変なことになったらしい。被災地支援とかを行われた立派な方々であるが、肝臓と肺のためにももう少し健康的な生活を心がけた方が持続可能な社会貢献ができるのではないかと思った。
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今回宿泊させて戴いたのは善光寺の宿坊の一つである徳行坊さん。同坊のご住職は今年は12年に一度めぐってくる堂童子(春を迎える善光寺様の神仏混淆の行事)の役があたっており、檀家総代としてそのサポート役をつとめたKくんに坊の案内をしていただく。

 Kくん「今年は堂童子だったのでた畳とかは全部新しくしています。先生方がとまられる部屋はぼくが堂童子をつとめた時とまった一番よい部屋です」と通された部屋はたしかに阿弥陀様の掛け軸がかかったありがたい雰囲気をかもした和室。お風呂を案内していただいた時、
 Kくん「ボクが堂童子で滞在している間、大寒波がきて水道管が破裂して、水がでなくて、外湯の温泉に三日に一篇かよってました。」と当時を思い出したのかものすごく悲しい顔をした。そのあと気を取り直したのか「その時水道管をかえたので、蛇口とかも新しいですよ」と。風呂に水をはるのは面倒くさかったのでシャワーのみにしたが、微妙に40度以上でず温かい夜であったとはいえ冷えた。
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 そして翌日10時から長野生涯学習センターで、「56年前からはじまった長野とチベットの縁 副題: 奥田正造から聖火リレーまで」というお話をさせていただく。演題の私の名前が由美子になっていたのでその場で裕美子になおした。

 要約すると、著名な教育者奥田正造(成蹊大学の前身成蹊高等女学校の校長を30年つとめた方。禅と茶道による教育で有名)が、1940年に法隆寺の貫首佐伯定胤の仲介で多田等観(真宗の僧、1913年から1922年までチベットのセラ大僧院に滞在し、帰国後は東大、東北大、慶大、東洋文庫などでチベット語文献の整理・研究を行う)と出会い、交流をもち、1943年頃からは二人して信州公演旅行や、関西高野山・法隆寺参籠の旅などを行い交流を深めた。

 奥田正造の葬儀ならびに年忌法要は善光寺本堂で行われたが1962年に行われた奥田の13回忌法要には多田等観は来日したばかりのチベット人三人(ソナムギャムツォ、ケツンサンポ、ツェリンドルマ三人とも1959年にインドに亡命)をつれて参加した。
 奥田正三は戦局が深刻になるに伴い、長野や関西の聖地に仏教が盛んになることを祈願した宝篋印塔を建立していたが、三人のチベット人は奥田が1934年に戸隠神社にたてた宝篋印塔をみて、世界平和を祈願して同じものをたてたいと希望した。
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 当時、チベットは中国に占領されたばかり、中ソ対立、米ソ冷戦、先の見えない世界情勢に彼らは一刻も早く世界平和が実現してチベットに戻りたいとの思いをこめたとものと思われる。
 これに応えた長野の人々は早速資金集めにかかり、長野の小学生が千曲川の小石を拾い、東洋文庫にいる三人のチベット人におくり、彼らはそれらの石に一文字づつチベットの経典を写して、トラックでまた長野におくり、1964年に長野市の花岡平に宝篋印塔は完成した。
 面白いのが、この塔の発起人には当時の善光寺のナンバーワンナンバーツーの若麻績の方が名前を連ねているのだが、これが2008年の聖火リレーの際チベットの側にたって動いてくれた人のご先祖であったのである(当事者はもちろんそれを知らなかった)。発起人と現在の支援者との関係で分かったものだけでも以下のものがある。

若麻績貫保→善光寺・正信坊の当代住職若麻績春実さんの祖父
若麻績芳雄→善光寺・白蓮坊の当代住職若麻績敏隆さんの祖父
早川利雄→善光寺・徳行坊の当代住職若麻績敬史さんの大伯父
岡澤慶隆→現長谷寺住職岡澤慶澄さんの祖父

みな、2008年にこれを知った時、不思議な因縁に震えたという。それもあり2010年にダライラマ14世が長野に講演におとずれた際、この宝篋印塔を訪問し発起人の一人である中村秀次さんと会見している。この日のレジュメは最後にはっておくので興味のある方はご覧ください。

 余談だが、私の話が終わったあとご高齢の男性が突然「仏教の話なんか誰も聞きたくない。聖火リレーの話をしろ。もっと一般の人にもわかる話をしろ。時間の無駄だ」(正確に書き取ってます笑)と叫びだした。私は「聖火リレーの話をして過激に中国批判をしたいのに私の話が穏やかすぎて気にくわなかったのか」と思い、「次の方は聖火リレーのお話をしますから、その時お話を聞かせてください」といったのに、わめきつづけ、その中で「わたしは聖火リレーの最高齢かつ最終走者であった」というのを聞いて、みな「この人この会を十年前の聖火リレーを顕彰する会と思ってきている」と理解し、本人も帰るというのでお引き取りいただいた。
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 後で調べてみたところ、若い頃は関東軍で後は日中友好協会で活動し組合活動をバリバリやっていた方であり、あの聖火リレーのランナーにふさわしい方であった。まあまさに間違った場所に間違った時にいた人ということになるが、彼を多少なりとも擁護すれば、さすがにチベットをぼろくそに言うことはできず、苦し紛れに「仏教の話で一般に分からない話」と批判したところは、チベット問題はマイノリティの人権弾圧の問題であることを多少は理解しているのだと思う。また、あの大声も組合活動で執行部を怒鳴り飛ばしていた時のなごりだと思えば、、ある意味絶滅危惧種な方である(そのあと新聞社の方には我々がマイノリティと言われたが 爆笑)。
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 さて、そのあとSFTのKさんとTリンドルジェさんが当時の写真をみながらお話をし、そのあと14:00から善光寺の内内陣でこの十年で弾圧や焼身抗議でなくなられたチベット人ならびにチベット蜂起の犠牲になった漢人たちの法要。口上は若麻績敬史住職の文作。祈願者の冒頭に私の名前があったのには恐縮した。

以下レジュメをはります。
56年前からはじまった長野とチベットの縁 奥田正造から聖火リレーまで

                       
                         2018年4月30日 於長野生涯学習センター

1884/3/3 奥田正造、岐阜県高山市に生まれる。
1890 多田等観、秋田県の浄土真宗本願寺派西船寺の住職の三男として誕生。
1905 奥田正造、東京帝国大学文科入学。
1911 多田等観、二楽荘(六甲山の麓にある大谷光瑞の別荘)で来日中のチベット僧ツァワティトゥルと共同生活
1912 多田等観、帰国するツァワティトゥルに随行してインドでダライラマ13世と謁見。
1913 多田等観、チベットに凱旋するダライラマ13世とともにラサ入り。1922年まで約十年間ラサのセラ大僧院にて学僧として学ぶ。
1917 奥田正造、成蹊女学校職員となり、数学・作法・お茶を教える。茶室不言庵をたてる。
1919 奥田正造、代表作『茶味』を書く。成蹊女学校主事になる。鶴見の総持寺に出講。
1920 奥田正造、成蹊女学校の校長となり修身・数学・教育・茶道を教える(〜1950)。
1921 奥田正造、成蹊高等女学校の校長に就任。
1923 多田等観、チベット文大蔵経を持ち帰って帰国。チベットに戻ろうかと迷っている際、法隆寺管主佐伯定胤(肉食をたち、妻帯もしない日本最後の僧侶として評判)にあい日本に留まることを決心。
1924 多田等観、東京帝国大学文学部嘱託。
1925 多田等観、東北帝国大学法文学部研究補助嘱託。以後東北大には、30年お世話になる。
1928 奥田正造、佐久に出講。以後毎年長野に出講し、各郡に不言会が生まれる。
1929 多田等観、東北帝国大学法文学部授業嘱託に昇格。
1930 奥田正造、成蹊高等女学校内に茶室法母庵を設立。
1933 ダライラマ13世、死去。10/4多田等観、蒙古に。
1934 奥田正造、戸隠奥社に仏教興隆を祈願して臨済宗法燈国師の母公の霊跡に宝篋印塔を建立。このほかも全国各地に宝篋印塔を建立(当時仏教は日本の大陸進出の際のツールとしてまた、鎮護国家のナショナリズムと結びつき隆盛していた)。多田等観、満州へ。
1939 ダライラマ14世即位。
1940 10/13 法隆寺管主、佐伯定胤猊下により奥田と多田等観がであう。
1942 多田等観、再度満州へ。
1943/4月多田等観、東京帝国大学文学部講師。4/8 佐伯定胤喜寿祝。奥田年譜によると祝いの席の参加者に多田等観の名が見え、多田年譜にも「成蹊女学校において佐伯定胤と会う」とある。
1944/9/30 多田等観、慶応大亜細亜研究所にて釈尊絵伝の展示。小泉塾長、辻直四郎、宇井伯寿などが観覧。多田年譜に、「奥田正造より天津に贈る地蔵印判四個をもらう」。
1945/3/13 空襲により奥田正造は自宅・学校を焼失。5/1 多田等観、成蹊女学校焼け跡に奥田校長を見舞う。多田年譜に「5/24 慶応大本館、研究所、普通部消失。5/29 横浜大空襲、小泉塾長重傷。」8/15 日本敗戦
1946 多田等観、東京帝国大学文学部講師。奥田正造、長野を経由して法隆寺、高野山・大徳寺参籠への旅。これに多田等観も同行。3/1〜3/2 「多田等観氏と二人で松本市松本高等女学校にて講話。」3/5 法隆寺金堂の掃除に多田等観の名がみえる(2/23〜3/11)。 11/20 奥田正造より多田等観に法隆寺管主短冊「南無仏」が贈られる。信濃の不言会が連合し信濃不言会となる。
1947 4/24 多田等観、成蹊女学校へいく。7/23 奥田正造、多田等観の花巻の住所である観音山にご詠歌を贈る。
1948 2/4 奥田正造、多田等観に法隆寺古材三点を受け取る。
1949 5/26 多田等観、成蹊女学校にて佐伯定胤より「等」の一字を戴く。10/21 多田等観の下に、法隆寺より印仏孝養太子像二百本届く。内150本を成蹊女学校へ。
1950/3/9 奥田正造、逝去。 5/16 多田等観、成蹊女学校で石田茂作の話を聞く。10月、人民解放軍がチベットに侵攻。以後、チベットの事実上の独立は失われ、中国の支配下に。
1951〜52 多田等観、スタンフォード大学アジア研究所の招聘により渡米。
1953 多田等観、『西蔵撰述仏典目録』刊行(これにより1955/3/12に学士院賞受賞)。
1954/4/26 多田等観、本願寺でダライラマの長兄、タクツェルリンポチェと合う。
1955/2/4 多田等観、東洋文庫でイギリスのチベット学者リチャードソン、タクツェルと合う。8/22 タクツェルとのお別れ会。
1956/4/1 多田等観、東洋文庫研究員になる。8/3 善光寺大勧進において行われた奥田正造七回忌法要に参列。
1958 中国、大躍進政策で餓死者累々
1959  ダライラマ、インドに亡命。その後を追って大量のチベット人がインドへ脱出。ケツンサンポ、ソナムギャムツォ、ツェリンドルマ三氏もこの年難民となって亡命。
1961/2/7 多田等観、39年ぶりにインドに2/29 ダライラマ14世に謁見。6/9 上述のチベット人三氏が来日。8/15 アメリカのモンゴル学研究者レッシング教授の弟子ポールハイヤー(日蔵関係史の研究者に)来日。8/17 三氏の日本滞在・東洋文庫勤務にロックフェラー財団の資金がつく。9/31 ツァロン夫妻来日
1962 8/3 善光寺において行われた奥田正造の13回忌に多田等観、上述チベット人三氏が参加。多田等観は「西藏と仏教」という演題で講演。三氏は奥田正造が戸隠神社にたてた経石をおさめた宝篋印塔を見学し、同じものを作りたいと所望。
1964 中国初の核実験に成功。文化大革命始まる。4/5 長野の人々によって宝篋印塔建立。記念講演はソナムギャムツォ「チベットの仏教」、ケツンサンポ「喇嘛教の秘密」、多田等観「阿弥陀如来の信仰」
1966  中国、弾道ミサイル東風3号の試験に成功。
1967/2/18 多田等観、死去。告別式は東洋文庫で行われる。
   5/7 宝篋印塔建立三周年記念で、ソナムギャムツォとケツンサンポがチベット仏教式で勤行。記念講演はソナムギャムツォ「20世紀の仏教」、ケツンサンポ「世界平和への祈願」。
  6/17  中国、初の水爆実験に成功。
1969  中ソ対立。
1972  米中国交正常化。
1974 毛沢東死去。
1988 -89 チベット蜂起。東欧において社会主義政権が倒れ、中国では天安門事件。東西冷戦の終結。ダライラマ14世ノーベル平和賞受賞
2008 ※ 北京オリンピック(8/8〜8/24)に先行する聖火リレー(3/31〜8/8)は中国のみならず22か国において30日間に渡り行われ、リレー距離は13万7000kmに及んだ。距離も期間も史上最長であったがチベット蜂起に対する中国政府の弾圧に抗議する人々と愛国中国人の対立によって混乱した。※この後聖火リレーはオリンピック開催国の国内に限定されることになった。
  3/17ラサの僧侶による蜂起記念日の平和的デモ隊を中国公安が武力鎮圧。抗議したラサ市民が蜂起。抗議行動はチベット人居住域全体に広がる。
3/24 オリンピックの聖火の採火式に国境なき記者団のロベール・メナール氏が五輪旗を手錠にかたどった旗(中国の人権抑圧を告発する意図)をかかげて乱入。
4/6 ロンドンでの聖火リレーは人権団体のカウンターデモに遮られ、聖火は消化器をあび、ルート変更、バス移動などを余儀なくされた。
4/7 パリでは市庁舎に人権擁護の旗がかかげられ、カウンターにパリ市長が参加。聖火は消されランタンでバス移動するはめに。※4/8 にはフランスのサルコジ大統領が開会式への参加条件にダライ・ラマとの対話再開をあげた。4/12頃 から中国全土でフランスの小売り大手カルフールへの不買運動が起きる。
4/9 サンフランシスコのゴールデンゲイトにフリー・チベット旗が掲げられる。
4/18 善光寺が、聖火リレーの出発地点を辞退。
4/20 善光寺の本堂六カ所に何者かが白いスプレーで落書きをする。
4/26 長野での聖火リレーが全国から集まった在日中国人の赤旗で埋まる。
2009 6/7 パリはダライラマ14世に名誉市民号を贈る。
2010 6/20 ダライラマ14世の長野のビッグハットで講演。翌6/21 に宝篋印塔(1964年の項参照) を参拝。

[参考資料]
高本康子(2012)『チベット学問僧として生きた日本人 : 多田等観の生涯』芙蓉書房出版
西蔵経宝篋印塔奉賛会編「建立二十五周年記念西蔵経宝篋印塔由来記」
多田明子, 山口瑞鳳 編(2005)『チベット大蔵経にかけた生涯』 春秋社
法母庵友の会編 (1981) 『奥田正造選集』

●奥田正造(1884-1950) 
 岐阜出身の教育者。成蹊高等女学校(現成蹊大学)の校長として、30年にわたり茶道と仏教(座禅)を用いた良妻賢母教育によって戦中の女子教育をリード。信州各地における講義に力を入れた。多田等観との交流は1943年大戦末期から1950年の死の直前まで続く。彼の精神をつぐ団体としては彼のたてた茶室の名にちなんだ不言会、法母庵の会がある。

● 多田等観 (1890-1967 チベット名 トゥプテン・ゲルツェン)
 秋田県出身の信州本願寺派の僧。真宗の法主、大谷光瑞の命により来日中のチベットの高僧ツァワティトゥルの世話役につき、その縁で1913年のダライラマ13世のチベット帰還とともにラサ入りし、1922年まで約十年間ラサのセラ大僧院にて学僧として学ぶ。帰国後は東大、慶大、東北大においてチベット語教授、チベット書籍の整理にあたり1956年、東洋文庫の研究員となり、1961年、同文庫に三人のチベット人を招聘する。人選にあたっては「自分はゲルク派の僧院で10年学んで同宗派のことはよくわかっているので、他の宗派がいい」とダライラマ法王庁に希望し、ニンマ派のケツゥンサンポ師、サキャ派のソナムギャムツォ師、貴族の娘ツェリンドルマ氏が来日した。この三人が1962年に多田等観氏に率いられて長野を訪れた三人のチベット人である。

○ケツン・サンポ・リンポチェ(1920-2009)
 ニンマ派修験僧。チベット、ヤムドク出身。1959年インドに亡命。離日後インド・ダラムサラのチベット文献図書館長などを歴任。多数の弟子を育成する。日本では中沢新一氏の師として名高い。
著書に『チベット仏教人名事典』、『初期チベット王朝史』等。

○ソナムギャムツォ(1933-1988 日本名: 祖南洋)。ツァンのサキャ派の支派であるゴル寺の転生僧。チベット、ラサ出身。1959年インドに亡命。離日後アメリカ、カリフォルニアに移住し、死去まで研究を続ける。
著書に『Tibetan Mandalas: The Ngor Collection』『西蔵曼荼羅集成 図版編』講談社 1983
等。

○ツェリンドルマ(1935-)
ダライラマ13世の側近であり、開明派として知られたツァロン(1959年に死亡)の第六女。日本からインドに戻った後はデリー、チベットハウスの代表をつとめる。ツァロン家に生まれ、後にシッキムの公子ジクメ・タリンに嫁いだリンチェン・タリン・ドルマの自伝『チベットの娘』(中公新書)にツァロン一家の家族構成、チベットでの暮らし、亡命の有様が詳述されている。

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| | 2018/05/10(木) 14:58 [EDIT]
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