白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2017/05/07(日)   CATEGORY: 未分類
ヒッピー文化の頂点で生み出されたドクター・ストレンジ
6日は六本木ヒルズ内で行われているマーベル展とインドの現代美術家N.S. ハルシャ展をみにいく。
 どちらも非常に評判のよい展示で、前者マーベル展についてはコンビニでチケットをうけとる債にレジのお兄さんが「素晴らしかったです」とイチオシしてくれ、後者ハルシャ展については、かつてのゼミ生がFBで絶賛していたことが実証している。検索してみると数々の個人ブログにもハルシャ展の感動がつづられている。
マーベル展

 しかも、22時までやっているので、夕方からでかけて閉館時間までねばれば大して混まない中で展示を見ることができる。
アイアンマン

 というわけで麻布十番でおりて、うどんの黒沢(黒澤明監督の家族経営らしい)でうどんを食べ、六本木ヒルズに向かう。実は。これまで興味なかったんで六本木ヒルズにいくのははじめて。

 マーベル展は52階の展望室で行われているので、ヒルズにすむ億万長者と同じ景色をみながら、ヒーローを演じた俳優たちが映画の中できていた衣装や小物を見ることができる。

 入り口には巨大なアイアンマンがたち、このアイアンマンととる無料記念撮影コーナーは長蛇の列。中国語がかなり聞こえるので海外からのお客も多そう。

 最初の部屋は宇宙のヒーロー(マイティソー、ドクター・ストレンジ、ガーデアン・オブ・ギャラクシー、)、次が地球のヒーロー(アイアンマン、キャプテンアメリカetc.)で、最後が、わたしの町のヒーロー(スパイダーマンetc.)というマクロからミクロの視点で展開する。

 このブログはチベット・仏教ブログなのでここではドクター・ストレンジに視点をあてる。彼はもちろん「宇宙のヒーロー」に区分されている。設定としてはアベンジャーズが物質世界の守護者だとすると、ドクター・ストレンジは精神世界の平和を守る「至高の魔術師」である(Sorcerer Supreme )。
アベンジャーズより高位なのよ。
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 彼の魔術の力はもちろんチベットで得たものだ(良い子は常識だよね?)。

ドクター・ストレンジがマーベルコミックに登場したのは1963年のこと。ヒッピーブームが最盛期の頃で、ベトナム戦争に疲弊するアメリカの若者たちは、こきたないヒッピーとなって世界を放浪し、ドラッグや×ックスに溺れながら「導師」を求めていた。折しも1959年、ダライラマ14世のインド亡命に伴いチベットは完全に中国の支配下に入り、多くのチベット人が難民となってインドになだれこんでいたため、彼らは容易にチベット世界に接することができた。

 チベット人はこのようなヒッピーの群れをみて内心ドンビキしつつも、忍耐強く彼らに仏教のとく心の平和を教えようとした。そのため60年代のアメリカのコミックスには主人公がチベット・ヒマラヤにおいてチベット僧について問題解決する的な作品がたくさん生まれた。有名なところでは『タンタン、チベットをゆく』も1965年に描かれ、浮遊するチベット僧やシンクロニシティが描かれている。ドクター・ストレンジもそのような時代背景の中で生まれたアメコミである。

 ストレンジは天才外科医であり、その技術を名声や金を手に入れるため、すなわち、自分のエゴを満足させるためだけにつかっていた。しかし。ある時自損事故で手に重傷をおい、外科医としての命脈をたたれる。よりどころを失ったストレンジは、奇跡をもとめてヒマラヤにいき、チベット人のエイシャント・ワン(古代の唯一神)に出会い、死にかけるような修業の末に、ついには時空をこえる力を体得する。

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 2016年には、BBc版 Sherlockでおなじみのベネディクト・カンバーバッチが主演で実写映画化された。日本公開は2017年一月でわたしはむろん見に行ったけど、忙しかったので直後に感想がかけなかった。すまん。

 内容を雑にまとめると、60年代のLSDでトリップしているヒッピーの脳内。エインシャント・ワンは性別不明の女ボスをやらせたら右にでるもののないティルダ・スウィントンが演じておられました。『ザ・ビーチ』でレオナルド・ディカプリオを、『コンスタンチン』でキアヌ・リーブスを縮み上がらせた彼女の怪演は今回は若干さわやかになりつつも健在(爆笑)。

 チベット人が配役されていなかったのはちょっと残念だったけど、ハリウッドに流れ込む中国マネーに気を遣って、原作のチベット臭を消したとかないですよね(笑)。

 今回ストレンジをつとめたカンバーバッチはじつはSherlockのシーズン2と3の間にも原作に忠実にチベットで修業?している。その時にも話題になったが、カンバーバッチは若い頃リアルでもチベット世界を旅している。
 以下彼のインタビューから。

――19歳でチベット仏教僧院で過ごした経験があるそうですが、今回その経験はどんなふうに役立ちましたか?

西洋の文化で育った若者が、初めて東洋の国に行って全く異なる文化に触れる、その体験自体が僕にとっては貴重なものでした。そういう意味でも、ストレンジという西洋人がチベットを訪れ、新しい世界に出会うというところがリンクしていますね。
僕は当時物理学にとても興味があって、ものすごく難解な本を読む努力をしていました。そんな本を読みながら東洋哲学や物理学にふけりつつ、バックパッカーのようにリュックを背負い、インドのデリーからいろんな所を旅して回っていたんです。それまで目に触れることのない文化的な儀式や日常生活などを肌で感じ取っていったことを覚えています。

――そこでの出会いも大きかったのでしょうか?

そうですね。そこで出会った人々は、山に囲まれ、人里離れた所にいながらも非常にユーモアのセンスがありました。インターネットも使うし、ポップカルチャーなど、意外と近代文化にも精通していたので驚いたこともありました。異文化交流ということでも、お互いに素晴らしい関係性を築けたし、とても面白い体験ができたんです。
僕が読んだ難解な本によると「1つの次元からもう1つの次元に移っていく」という感じで人間がステップを踏んで成長するためには「今の自分を知らなければいけない」とありました。物理学なのでたくさんの数式が出てくるのですが、残念ながら私は数学があまり得意ではなかったので「自分に物理学者は無理かな」と思って諦めてしまいました。ただ、数学や物理学などに興味があったので、とても面白かったんです。

(「『ドクター・ストレンジ』主演カンバーバッチが語る、チベット仏教僧院で過ごした過去」マイナビニュース 2017/2/2)

 60年代のヒッピーたちも、その後の世代であるカンバーバッチも、異なる文化(精神文化優位)を理解することによって自分の文化(物質文化優位)を相対化しその問題点を克服しその結果新しい局面に踏み込んでいった。彼らはチベット文化での放浪を境に子供から大人になった。カンバーバッチがストレンジを演じるのはまさに適役だと思う。
 個人的にはカンバーバッチのあの抑制のきいた繊細な声がいい。

 ハルシャ展は疲れたのでまた今度。
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DATE: 2017/04/13(木)   CATEGORY: 未分類
ペテルスブルグ紀行17(町歩き編)
前のエントリーを投稿した直前、ペテルスブルグでテロがあった。「先生無事ですか」的なメッセージがLineに入りはじめ、ニュースをつけて現場からの中継映像をみてふいた。私がつい数日前訪れた王立地理学協会の最寄り駅サドヴァヤでないの。

 政治の町モスクワでテロがある可能性はちらっとは考えたが、観光都市ペテルスブルグで起きるとはね。しかし、よく考えてみればパリのテロもニースのテロもチュニジアのテロも政府機関ではなく観光客をねらっていた。それにペテルスブルグも完全に政治機能がないかといえばそうでもない。聞けばこの時プーチンはペテルスブルグにいたそうで(そもそも彼の出身地)、彼はペテルスブルグ人脈でここまできて、そのゆかいな仲間達とロシアをしきっているのだから、狙われてもおかしくなかった。犠牲になられた方に哀悼の意を表します(次の写真はテロの現場で献花するプーチン)。
ぷーちん

 町歩き編の冒頭は「テロに気をつけてね」、という言葉で始めます。

 ロシアに行く際、フラッグ・キャリアのアエロフロートを使う人は多いであろう。この航空会社、社会主義時代に比べれば設備もサービスもよくなり、意外にまともである。もちろん飛行機の機体をサテライトに横付け、みたいなことはなく、バスで家畜のように運ばれ、氷点下の風のふきつける中タラップを上がらされるみたいなことはあるけど、昔よりはるかにまし。

 驚いたのが、離陸をする際にも電気機器の停止をあまりうるさくいわないので離陸直前までiPhoneのメッセ音「チーン」、やFacetimeのまぬけな呼び出し音があちこちからなりひびくのがおちゃめ。同じことは地上の電波が入る着陸間際にもおきる。おおらかである。

 モスクワでの入国審査で団体客でない中国の方の後ろにあたるとすごい待つ可能性があるので気をつけて。ある漢人は20分審査された上に入国が許可されなかったとの目撃談もあり。なので可能ならロシア臣民の後ろに並んでください。 政治の世界では中露は仲良くして日本は北方領土とかでロシアと対立しているかにみえるが、民間レベルでは、その逆で、在日20年のロシア人Aさんによると「ロシア人の97%は日本人に好意的で中国人には好意を持っていないという。

 その心は、中国は今南シナ海でやっていることをロシアの東部でもやっているからである。最近でも、とある中国人がロシア女性と結婚してロシアの土地を合法的に手に入れるや、そのロシア女性を中国国内の売春窟に売り飛ばし、土地を好き勝手したという事件があり、ロシア人が怒り狂っている。中国人の偽造パスポートも問題になっていて、一度ロシアに入れたパスポートは、持ち主が死んでも別の人間がそれを利用し続けるので、ロシアの入国記録の中では中国人が死んだことがないんだそうな(笑)。ロシアは世界最大の国土領域にたった三億人くらいしかおらず、せせこましい日本からいくととくに過疎に感じる。観光客があつまるペテルスブルグでは夏は「ここは天安門かよ」みたいなかんじになる。というわけで、人口で圧倒されるロシア人は中国人に対する警戒感が強い。
 
 私の個人的な感覚からいっても、ロシア人は日本人を敵視していない。たとえば、タクシーの運転手さんもへんにごねたりしないし、機内で重いカートを上に収納する時、行きも帰りも近くのロシア人男性がスマートに挙げてくれた。ロシアの若い女性もキレイで感じいい(もちろん柄の悪いのも居るけど)。ハウステンボスのようなヨーロッパの街並みを、髪を後にたばねた金髪や銀髪の女性が背筋をのばして闊歩している様はほれぼれする。

 ちなみにAさんによるとこの美しさは人工的。「ロシアの男たちは『ロシアの女の子の髪はなんで根もとが黒いんだ』と不審がっているが、あれ染めているか、色抜いているかですよ、ゲラゲラ」。たしかに男性の髪の色は茶色であった。男女で髪の色が違うわけない。

●独断と偏見に基づくみどころ案内

 コズロフアパートメント記念館の隣には十月革命の舞台となった革命の聖地があった。モスクワに政府機能がうつるまではソビエトの中心であったという。建物の前にはレーニンの有名な像があり、マルクスとエンゲルスの胸像、ならびに、プロレタリアート・独裁の銘文がきらきらしい。ある世代より上の人ならここで感極まるだろう。

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 私「コズロフは何が悲しうて、こんな中南海みたいなとこにアパート借りてたんですか。」

 ウスペンスキー教授「コズロフがこの居を定めた時はこの建物はスモーリヌイ女学院で(1764年エカテリーナ2世によって創立)でした。革命軍がなだれこんだ後、革命本部になったんです」

 ああそうか、ここがあのジョン・リードの『世界を揺るがせた10日間』で有名なスモーリヌイか。じゃああそこにある結婚式場みたいな建物は、スモーリヌイ女子修道院か。すばやくネタ認定してiphoneで写真をとりまくる。ちなみに、ジョン・リードは革命後、ロシアを被う飢餓を目の当たりにしてうつになり、32才でモスクワで病死。なかなか理想通りに物事はうごかんな。

 かつてのロシア革命の本拠地は現在はテロを警戒して非公開となっている。中国から「革命の聖地」を拝みに巡礼者がたくさんくるそうな。この建物の前には広大な公園があり、ペテルスブルグ建都300周年の時、プーチンが各国の元首をよんでここで豪華な式典を行ったという。ウスペンスキー氏は、その時、日本の首相が贈ったソメイヨシノの下に連れて行ってくれた。私が日本を離れる時にはちょうどソメイヨシノが開花し始めていたが、ここでは桜は五月にならないと咲かない。
社会主義時代を懐かしむ人がいるのか、ネタ化しているのかは定かではないが、町中にはソビエトカフェもある。

 ペテルブルグにはエルミタージュ博物館以外にも、ロシア最古の博物館クンストカメラ、宗教歴史博物館、ロシア美術館、民族学博物館、などロシア帝国の時代のコレクションをおさめた素晴らしい博物館がたくさんある。ロシア美術館・民族学博物館はプーシキン広場の前に並んでたつ白亜の殿堂。展示には現在のロシアの民族政策が反映して深読みするとなかなか面白い。ウクライナとかジョージアとか(笑)。
プーシキン

 あとはカザン大聖堂とイサク大聖堂などで独特のイコンや十字架からカトリックとは異なるロシア正教会の雰囲気を楽しむのもおすすめ。たくさんの人が聖母子象のイコンに頭をつけてその加護を祈っていた。ネフスキー大通りにはカトリックの教会、キャサリン聖堂もある。カトリックの聖堂内は椅子がならんでいて人があまりいないので氷点下の室外から一息ついて休むのにはちょうどいい(ロシア正教会の聖堂には座る場所がない)。ソ連が崩壊した1991年にこの聖堂はカトリック教会に返還されたが、返還直後のあれはてた教会内部の写真や殉教した聖職者たちの肖像が入り口脇のコーナーにはられていた。ポーランド王のお墓が内部にあるのだが、これも破壊の爪痕が見受けられた。

 最後にお食事についての雑感。ロシア通貨は今大変弱いのでスーパーとかで日用品のお値段をみるとすごく安いが、レストランやカフェなどで食事で払うお金はほぼ日本と同じ金額になる。彼らはあまり外食しないのかな。
 イタリアンは全体にまあ美味しかった。町中至るところにスシバーとリトル・トーキョーがあるが、日本人が経営しているわけもないので入る勇気はない(醤油がやきとりのたれだと聞いた)。ホテルの近くの中華に入ってみたが、まずい。しかもおつりごまかされた。

 不愉快なので、入るなら比較的日本人の口にあうので有名なグルジア料理がおすすめ。私はカフェ・エグリス(кафе эгриси)で食べてみたが、確かに美味しかった。エグリスとは4世紀から6世紀に南コーカサスにあったジョージアの王国の名である。
 こんなの

 民俗学博物館からネフスキー大通りをネヴァ川にむかって歩いていると、向かって左にストロガノフ宮がある。革命のために中はカラッポになっていたが、昨今徐々に修復して公開を始めているという。ちょうど昼時だったので、普通のロシア人の入るダイナーに入ってビーフストロガノフを注文してみた。
 でてきたのが、これ。
ストロガノフ

まずくはないけど、美味しくもない。日本人は麦飯というと刑務所を思い出すのでちょっとこれは・・・。
 
 お土産物やさんに入ると、マトリョーシカなどの定番とともに、レーニン、スターリン、プーチンの個人崇拝用の胸像が並んでいる。とくにプーチンは機関銃を構えたコワモテなかんじでデザインされたTシャツ、マグカップなど「プーチン、かっけーっ」グッズがでまわっている。中国人が買うとも思えないからロシア人のナショナリストが買うのかな。

 プーチンの故郷、ロシア革命の聖地、くどい建物の前で銅像が手を挙げてポーズをとるまちペテルスブルグ。
女の子はきれいだし男性はやさしいし、物価は安いし、みなさんペテルスブルグはステキな町ですよ~。ただし水とテロに気をつけてね~
カザン6

レーにん
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DATE: 2017/04/03(月)   CATEGORY: 未分類
ペテルスブルグ紀行17(学術編)
 卒業式の翌日からロシアのサンクト・ペテルスブルグに出張した。到着した26日日曜日はモスクワをはじめとする各地で反プーチンデモが炸裂していたが、ペテルスブルグは平穏だった。ダイナーで食事していたらやたら軍人や警察官が目についたくらいかな。

 ペテルスブルグはいうまでもなくかつてのロシア帝国の都である。 ロシア帝国はかつて大英帝国とともにユーラシア大陸を二分して領土合戦を繰り返していた。そのため、ロシアにはユーラシアの北の方の史料が、イギリスには英領インドを筆頭とした南の国々の史料がよく保存されている。どんなものかと言えば、ロシア帝国時代に国威をかけて行った探検事業や戦争を通じて手にし〔たものだけではなく、革命後に個人から没収したり、第二次世界大戦でドイツから奪い取ったりし(笑)〕た敦煌、クチャ、トルキスタン、モンゴル、西夏などの、多くの文物である。

 しかし、チベット関連の史料についてはやはりイギリスの方が充実しているため、私の脳内でロシアの占める地位は低かった。しかし、最近近現代に興味をもつようになると、じょじょにロシアの重要性が分かるようになってきた。1904年、ラサにイギリス軍が迫る中、ダライラマ13世はロシアの支援を求めて北上しモンゴルのウルガ(現在のウランバートル)に到達した。そうしたらロシア帝国内のチベット仏教徒たち(カルムック人、ブリヤート人)がダライラマ13世の下におしよせ、東西のチベット仏教徒が激しく交流するようになるのである。

 今回のペテルブルグ行きの目的は、1905年にロシア地理学協会代表としてウルガに滞在していたダライラマ13世を訪問したロシアの地理学者コズロフの撮影した写真を見ることである。1907年に記されたコズロフの報告書には、ダライラマ13世は写真を拒否したので、肖像画家をつれていきその肖像画を書かせたこと、彼の宮廷のスタッフや南モンゴルから巡礼にきたスニット部盟長で郡王とその家族の写真をとった旨が記されている。

 現代の研究者はダライラマ13世を独立チベットの、ジェブツンダンパ8世(生まれはチベット人)を独立モンゴルの提唱者としてそれぞれの国のナショナリズムとともに語る傾向が強いが、この場合忘れてはならないのは、ジェブツンダンパ8世の権威はハルハにしか及ばなかったが、ダライラマ13世の権威については、ロシア・清朝在住も含む全モンゴル人、のみならず、西洋人にも及んでいたことである(本当)。コズロフがとったウルガのダライラマ13世とその下に訪れる巡礼たちの写真は当時のダライラマ13世の領域をこえた権威を示す貴重な史料なのである。

●P. K. コズロフのアパート博物館へ

 初日はペテルスブルグ大学のウスペンスキー教授の紹介で、コズロフ・アパートメント博物館(Kozlov Memorial: 住所: 191124, Санкт-Петербург, Смольный проспект д. 6, кв. 32.)において、二年前にここの館長を辞したアンドレイエフ・アレクサンダー研究員と会う。この記念館の名前が示すように、コズロフが1912年から35年までに住んでいたアパートメントをそのまま記念館にしたものである。
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 アンドレイエフ研究員によると、コズロフの収集した文書系のものはモスクワ(ただし清朝を探検した際のパスポートみたいなものは展示されていました)に、文物系はエルミタージュにうつしたので、ここにあるものは写真以外は演出で飾ったものだとのこと。

 研究員はペテルブルグやモスクワの文献館にある文書に基づいて、ロシアのチベット仏教徒について実証的な研究を行っている(これができる研究者は旧社会主義圏には少ない)、非常に尊敬できる方であった。彼と話していて、ロシアの仏教徒研究については文書館の近くにすむ彼には絶対叶わないので、この点については彼の研究を消化し、彼の視野に入っていない、清朝やモンゴルや日本関連の視点を私がつなぎあわせれば、さらに高い視点からチベット仏教世界の近代が見えるのではないかと思った。アンドレイエフはコズロフの居間にはられた写真を一つ一つ説明してくれた。それはコズロフがヘディンやドルジエフやなどの同時代人ととったものであった。

●地理学協会で異文化コミニュケーション(笑)

 翌日、コズロフが1905年にウルガでとった写真を閲覧するために、ウスペンスキー教授のつきそいのもとロシア地理学協会Russian Geographical Society)を訪問する。そこは軍の下部組織とかで閉鎖的で部屋には開室時間が書いてあるものの、午後にしか写真はださないし、全部はだせないと非常にへんなかんじ。ウスペンスキー教授と学芸員(女性)が話あっているが、ロシア語なので内容はわからない。テレパスで解釈すると、どうも私の直前に日本からきたIさんがとても愛されていて、彼に対する気を遣って私にみせたくない感じがした。
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 これって、そこにいる学芸員のゴキゲンをとらないと史料をだしてくれない、中国の田舎の档案館なんかと同じ縁故システムである(システムでないけど)。西欧諸国の文献閲覧は透明性が高い。フィンランドの国立博物館所蔵のマンネルヘイムの撮影した写真をみにいった時は、フィンランドに誰一人知り合いがいないにも関わらず、メールのやりとりだけで当日そこにいけば、申請したフィルム類が、手袋と関連書籍とともにだしてあった。学芸員さんにこちらが質問すれば答えてくれるし、必要以上に個人的なつきあいを深める必要もなかった。

 「何度も通って学芸員さんと関係を作って「じゃああなたにならみせてあげる」、という前時代的なシステムははっきりいってメイワク。そもそも史料にアクセスすることに障害があること自体がおかしい。個人の好き嫌いで史料の公開・非公開が決まったり、国策で過去の史料をみせていなかったりするのは、本末転倒。歴史学者の仕事は学芸員の機嫌を取ることや、その史料を隠蔽している国の機嫌を取ることではない。
 
 とかなんとかいう原則論をいう前に、そもそも私には人間関係の構築を行うためのロシア語力がないんだよね。しかも、ウスペンスキー教授は「今日は授業」とかいってでていくし(おい)、自力で何とかしなければならない。
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 まず「史料を申請するための書類をかけ」と言われるが、すべてロシア語なのでよめねえ。
「何でロシア語の書類しかないんだよ」と思うが、よく考えたら、日本の公文書館にくる人は日本語が読める人しかこないから日本語の書類しかないのと同じだ。そもそも私がこの語学スキルでここにいるのがおかしい。しかし何とかせねば。そこでiPHoneにダウンローどしていたキリル文字を自動読み取りして翻訳するgoogleの翻訳アプリを書類にかざしてみたら、あら不思議。内容がわかるわ。何とか書類をうめることができた。

そして「午後にしか写真みせてくれないないなら、今はひとまず目録をみせて」ととりすがって目録をみせてもらい、コピーはだめというので、ひたすらコンピューターに写す。電子データのうちだしなのだから、仲良くなった人はこれをUSBでもらえるのだろうと思うと空しいが、こちらも意地でひたすらパソコンに目録を書き写していく。

 目録のだいたいの構造をよみとり、1905年のウルガのダライラマ13世巡礼写真のフォリオの番号をみつけ、「これだけでも出して、お願い」とせつせつと訴える。
 とはいってもロシア語力がないので、まず英語で作文してgoogle翻訳でロシア語訳してそれをword にはって拡大して、悲しい顔をしてその画面を学芸員さんにおみせするのである(爆笑)。

 相手も私に何か伝えようとするがもちろんロシア語なので通じない。そこで私はみぶりでパソコンでgoogle翻訳をひらくようにいい、そこで彼女にキリル文字でうちこんでもらい、その場で英訳して、読み取る。ケータイアプリとパソコンgoogleによる新時代の異文化コミニュケーションである(笑)。

  ありがとうgoogle。あなたのおかげでわたしはロシアを生き延びることができました。
写真の中には1904年にダライラマ13世がラサを脱出する時行動をともにしていた、ダライラマの侍医やお膳係(gsol dpon)、それと巡礼にきたスニットの盟長と妻、娘たちの写真など目指す写真にはいきついた。番号がわかったので次はそれこそ語学ができてちゃんと関係を構築できる方に頼んで使用許諾を得てもらおう(寄生虫である)。

●エルミタージュ博物館とロシア民俗学博物館

 地理学協会の翌日はエルミタージュ博物館のチベット部門、その翌日はロシア国立民族学博物館(The Russian Museum of Ethnography )にいく。エルミタージュではチベット・モンゴル部門のジュリア・エリヒナ学芸員を訪問し、彼女から展示品の説明をうける。私が注目する展示品は、ダライラマ13世からニコライ2世に1913年におくられた文殊菩薩、無量寿仏、白ターラー尊である。
 1913年はダライラマ13世がチベットの自立を宣言し、ロシアはロマノフ王朝樹立300周年を迎えた記念の年であつた。
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 私はジュリア学芸員に「チベットで長寿三尊と言えば、無量寿仏、白ターラー尊、尊勝仏頂尊なのに、これはなぜ尊勝仏頂尊でなく文殊菩薩なんでしょう。文殊菩薩は普通中国皇帝のシンボルですよね」というと彼女は「さあしらん」。

 翌日、ロシア民俗学博物館に、同じく1913年にブリヤートの使節団がニコライ2世に奉献したヤマーンタカ(ヴァジュラバイラヴァ)13尊の立体マンダラをみにいく。ウスペンスキー教授によると二年前のチベット寺創建100周年の年にこの博物館で素晴らしいチベット仏教展示会が開かれ、そこには出品されていたそうな。私はこの博物館のサイトからとった立体マンダラの写真をみせて、「どこだ」と博物館にいたあらゆる人に聞いたが「ない」と言われた。展示していないならサイトにのせるな。

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 この時、なんで13尊ヤマーンタカなんだろうと思ったが、エルミタージュを訪問した際に、ユリア・エリフィナ学芸員から拝受した『エルミタージュ藏ニコライ・リョーリヒチベット仏画のコレクション』Tibetan Paintings form the Collection of Yu.N.Roerich. を読んでいるうちに何となくわかってきた。

 本書94ページの「緑ターラー尊」の佛画の解説には、ターラー尊の上部には「最初のシャンバラ王」(rigs ldan dang po)スチャンドラが描かれている、と記されていたが、帰国後写真を拡大してみるとこれはRigs ldan dang poではなくRigs ldan dag po(< drag po 'khor lo can サンスクリット語でルドラチャクリン王)と読める。

 ルドラチャクリン王は2037年に即位する25代目のシャンバラ王で最終戦争にかって地上に仏教徒の楽園を実現するという救済者として名高い王であった。この王は文殊の化身とされるので、ダライラマ13世の奉献仏像の中に文殊菩薩があったことの説明つく。ちなみに文殊の忿怒相がヤマーンタカなので、ブリヤートの献上品にヤマーンタカ13尊マンダラがあることも説明がつく。満洲人国家である清朝が崩壊し、漢人国家の中華民国が成立すると、チベット仏教徒は漢人皇帝よりも、ブリヤートやカルムックなどのロシアのチベット仏教徒にやさしいロシア皇帝に期待をよせ、シャンバラ王にみなしていたのである。

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 次回はペテルスブルグを行く(町歩き編)です。
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DATE: 2017/03/24(金)   CATEGORY: 未分類
虹の橋に行きかけた
火曜日の朝六時、めまいで目が覚めた。起き上がるとさらに症状はひどくなり、まっすぐ立てない。外はどしゃぶりの雨でこの気圧の変化が発症の原因かもと思う。この日、東京は全国に先駆けて平年より五日早くソメイヨシノの開花宣言があった。

 こりゃいかんととりあえず代謝をよくする漢方をのんで寝直すと、あまりにも体調が悪いので起きているのか寝ているのかもわからない意識状態となる。今の意識から言えばそれは夢であるが、その時はとてもリアルなものであった。

 夢の中で私は真ん中に広間があってその両側に小さな部屋のある大きな家にいた。夢の中の私はそこを私の家だと感じている。なぜなら、普通に廊下の先の方で愛鳥(ごろう様オカメインコ)が飛んでいるし、部屋から愛猫(茶虎)がすたすた出てきたりしているからだ。

 私は母を探していた。実は母は四半世紀前になくなっているが、夢の中の私は母は生きていると確信している。母の気配が玄関に感じられたのでいってみると、今しがた町内会の会費を払ったばかりなのか、何ヶ月分かの領収書が置いてあった。その領収書を手にとって「母は近所に出かけているのかな」と思い、その次の場面では私はいつもの布団の中にいてその手の中には領収書が握られていた。

 この時私はもう母の死んでいる世界にいて、手の中の領収書をみて「あれは夢じゃなかったんだな。」と思っていた。

 しかし、二度目に同じ布団の中で目が覚めた時にはもう手の中には何もなかった。夢の中で夢が覚めるという体験はこれが初めてだった。

 忘れないうちに家人に夢の話をし、あれは何だったんだろうと検討を行う。
 死んだ人間を死んでいないと感じていたこと、あそこにいた猫は先代の猫(当代と柄がまったく同じ)と先代の鳥(当代はオカメインコだが先代はセキセイインコ。しかし遠目でみえただけなので先代の可能性もある)であったとすれば、なくなった愛するものたちが我々のくるのをまっているというあの「虹の橋」を垣間見た可能性もあるのではないか(オノレは仏教徒だろw)。体調絶不調の私の意識はあの時、あの世に半分はいりかけていたのかも。あの時、母は気配しか感じられなかったが、面と向かって姿を見ていたら、いわゆる「お迎え」が来たことになるのか。

 翌日また不思議なことがあった。FB経由でYさんから「昨日東京女子医大にいませんでしたか。先生とすれちがったような気がするのですが」というメッセージを頂戴した。時間をきくと15:30である。当然家で伏せっていた時間である。じつは前にも「先生〜にいませんでしたか」と私が存在しえない場所での目撃談を聞いたことがある。この現象は可能性としては、

1. 他人のそら似。 
2. ドッペルゲンガー 
3. 修行の結果幻身が出現した。

 の三つが考えられる。 チベットでは高僧は衆生済度のために同時にいくつもの場所に存在することが可能であると言われ、グヒヤサマージャの法で成仏するとできあがる有名な幻身もそれである。
しかし、私は高僧でないし、グヒヤサマージャの灌頂は受けたけれど生起法はやってないので、そんな高度なワザをくりだすことはできない。なので、1. でなければ2.である。
 翌日は体調も回復し、二日経った本日はこのエントリーを書く気力が生まれた。とりあえずおきたこと、考えたことを備忘のために書き留めておく。
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DATE: 2017/03/17(金)   CATEGORY: 未分類
『チベット牧畜民の一日』と『天空の宗教都市』
●5月27日(土)に「東京で感じる天空の聖地「チベット」」の日帰りツアーの講師をいたします。

新宿駅→ダライ・ラマ法王事務所→中村天風や大隈重信が眠り、かつダライ・ラマ法王が講演された護国寺(江戸時代の美齢な十二神将が圧巻)→真正のチベットレストラン「タシテレ」での昼食→河口慧海が住職をつとめた五百羅漢寺(羅漢さんは字圧巻)→河口慧海終焉の地に近く顕彰碑のたつ九品仏浄真寺(巨大な九体阿弥陀像で有名)→新宿駅

 参加者にはもれなく拙著『ダライ・ラマと転生』がお土産につくそうです。
詳しくはこのサイトで。

 震災六年目の3月11日、東京外語大学アジア・アフリカ研究所にドキュメンタリー映画『チベット牧畜民の一日』を見に行った。同研究所で行われていたチベット遊牧民に関する三年の研究成果を発表する企画の最終日であり、同研究所の1階展示スペースには「チベット牧畜民の仕事」というパネル展も展示されていた。
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 このドキュメンタリーを見た人々が、「チベットの牧民の男がいかに働かないかが分かる。力仕事も何もみな女性がやっている」あるいは「あまりに男が働かないので、読経しているじいさんの頭を殴りたくなった」などの感想をネットにあげけていたので、男と坊さんをどのように描いているのかに興味があった。

 見てみると、確かに男が怠け者に見える。たとえば、雨が降り出すと、女性が慌ただしく干したヤクの糞(燃料に用いる)を雨に濡れないように取り込むのに、在家密教行者のおじいさんは雨の中座り込んで「雨雲を散らす瞑想」をしている(笑)。これを見て「天下国家を論じてばかりで目の前の仕事をしない」自分の夫なり何なりを思い出して、腹を立てる日本人の女性はいるであろう。

 しかし、本当に雨雲が散らせるのなら瞑想も密教行者の立派なお仕事である(笑)。

 ハインリッヒ・ハラーは『チベットの七年』の中で「なぜ雨が呼べるのか(あるいは止めるのか)、これだけはどうしてもトリックが分からなかった」といっているので、少なくとも中共が侵入してくる以前のチベットでは在家密教行者はきちんと仕事していた。

 そもそもこの映像は、遊牧民の家事労働を記録に残すべく、研究者たちがあらかじめ提出した18のトピックに基づいて、カシャ・ムジャ監督がとったものだ。そのトピックが家事労働、料理(とくに乳製品)、家畜など衣食住などであったため、結果として女性が仕事する映像が多くなった。また、一週間(2015年夏)という限られた期間に撮影されたためその制約もある。

 私はもともとモンゴル・ゼミだったので、大学に入って最初に読んだモンゴル語の論文が乳製品の加工であった。そのため、このフィルムにでてくるヤクの乳製品の加工を見て「モンゴルと同じじゃん」と思い、かつ、春夏秋冬彼らの生活に数十年にわたりよりそい、家畜の冬越し、春の繁殖、群のコントロール法、災害、季節による牧地の移動などを時間をかけて記録しないと牧畜民の生活は完全には記録できないだろうと思った。あと、モンゴルでの牧畜の民族誌の蓄積が参考になると思う。
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 上映後、研究グループの一人一人がフィールド調査での苦労話やこぼれ話を披露し、一般の方からの質疑応答を受けた。質問者にはチベットのおかしがご褒美に配られる。最近文科省は研究成果を専門家にだけ分かる言葉で発信せず、一般に還元するようにと通達しているが、この会には多くの一般人が聞きに来ており、質問も活発になされたので、文科省もお喜びのことと思う。フィールド調査は一般向けのプレゼンがもっともやりやすい学問ジャンルである。

同じチベット学でも、世界的に評価の高いチベットの存続を可能ならしめているチベット仏教の哲学については一般向けのプレゼンは難しい。チベットの仏教哲学はきわめて精緻で複雑なので、トレーニングを積んだ人でないと分からず、それは科学や物理の先端的な研究を一般の人に分かりやすく説明しろと言われても、無理なのを想像していただければ分かりやすい。今目の前でみているような形で人々に「ああわかった」という感じを持たせることは哲学ではできないだろう。
 
 仏教学よりは少しはましだが、歴史学もこういうフィールドに比べると一般うけがしない。ここに存在しない過去が舞台だから。「17世紀にタイムスリップしてダライ・ラマ五世にあってきました」とか言いでもしない限り臨場感のある話はできない。

会場からでた一般の方からの質問はざっとこんなもんであった。
質問(男):女性ばかりが働いているけど男は何か仕事をしているのか。
答え:男と女は分業していて、かつて男は羊の皮をなめして服を作ったりしていたけど、今は既製品を着ているため、男の仕事はへった。一方、女の仕事は電化したため多少は楽になったものの、減っていないため、これはチベット社会を考える上問題になっている。
 男は現金収入を得るため出稼ぎして街でタクシー運転手とか、肉体労働をやっている家庭も多い。

質問(女)::映像中で昔は羊の衣袋をつかってチーズを保存していたというが、ヤクしか写っていなかった。いつ頃から羊を飼わなくなったのか。
答え::草のキャパが少なくてヒツジは山の向こうの友人に預けている。秋になると360頭の羊が帰ってくる。それとチベット人は最近殺生を嫌って羊をトサツしなくなったので、ヒツジは減っている。
*これは面白かった。2006年ダライラマ14世が、法話の中で殺生して手に入れた毛皮を着て見栄を張るののは恥ずかしいことだ、といったら、チベット人は「うおおおおお。法王様ごめんなさぃぃぃぃ」と自らの着ていた毛皮を焚き火にほりこんでもやし、それをみた中国政府が牧畜民がダライ・ラマの言葉に従ったのを問題視し「毛皮を着なさい」と強要したという、あの話を思い出した。チベット人はダライ・ラマの非暴力思想をまじめに遂行しだしたのは、ある意味中国政府に支配されているからという側面もある。

質問(男):山の上の生活ではゴミはどう処分しているのですか。
答え:〔決まり悪そうに。〕何でもかまどにくべてもやします。ペットボトル何かをもやしたらダイオキシンがでるとか考えないようです。中国政府の定住化プログラムで集住した遊牧民のすみかでもゴミ問題は深刻になっています。

質問(女):チベット人は宗教・言をはじめとして自分たちの文化を護ろうとしてもいろいろ自由がないのではないか。
答え:チベット人のナムタルジャさんが決まり悪そうにだまりこむ。H先生が代わりにチベット語が重視されていないこと、漢族に飲み込まれていくことはチベット人にとってもちろん大きな問題として認識されています。と答える。ナムタルじゃさんが答えられないのは、むろん青海に家族がいるからである。

質問::若い女性が朝から晩まで重労働しているが、彼女らは都会にでたがっているのではないか。
答え:若い人を集めて聞き取り調査をしたが、父親がそばにいるからか、みな月並みなことしか言わない、芸能人の名前とかだして話を引き出そうとしたが、お父さんは突然「ハイ打ち切り~」と終わりにしてしまったため、彼女らの胸の内は計り知れない。でも誇りを持って自立して生きている人に、こちらの考え方をおしつけるのは野暮だろう。

質問(女):伝統的に遊牧していたのか。過去と今では変化はあるのか。
答え: 1959年以後は中共が侵入し,人民公社を作って集団化したため、個人所有はなくなった。1984年からは個人所有が許されるようになったが、1997年に家族の人数に合わせて分配することになった。過去は移動していたが、モンゴルほど長距離の移動ではなかった。村のなわばりがきまっているので、大体2キロから10キロか。

質問:チベット人の通常の食事はツァンパや肉だと思うけど、映像にははるさめとか、餃子がでてきた。後者は特別なの?
答え:冬は肉中心の食事になる。昔は小麦は手に入らず麺は作らなかった。春雨とか餃子は昔も作っていたけど最近はとくに流行っている。

質問::テントの中に機材があったがテレビ映るのか?チベット語のテレビ局はいくつあるのか?中国語の番組を子供が見たら漢化しないか?
答え:衛星の電波が入るので、西寧と同じ番組が見られる。しかし、内容はcctvをアムド語に直訳したりした番組である。子供は中国語のアニメを見るので、みな中国語できるようになった。学校は寄宿舎。チベット語が軽視されていて、チベット人は問題視している。
チベット人は中国人に飲み込まれていく危機感を覚えている。生業に基づく文化を失うのではないかとおそれている。
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最後にナムタルジャさんの博士獲得と震災からの復興を祈念してルンタがまかれた。ナムタルジャさんは元牧童であり、牧畜民初めての「博士」とのことであった。青海省や内蒙古のモンゴル人の元牧畜民の方はずっと昔に留学してみな博士号をとっているので、同じ牧畜民でもモンゴル人の方がチベット人より外界との接触がかなり早い。

帰宅して、その日の七時半から『天空の宗教都市』(BSプレミアム)を見た。これは、ラルン・ガロという東チベットのニンマ派の僧院に関するドキュメンタリーである。、ここ数十年で漢人の信者も含めて急速に大きくなり、当局がその拡大を阻止しようと去年僧坊の破壊を行った(詳しくは川田進先生の『東チベットの宗教空間』をご覧あれ)。かつてNHKの看板番組にシルクロード・シリーズというものがあり、流せば高視聴率がとれ、視聴者は仏教がインドから平城京にいたった古代のロマンに酔いしれた。そこにはこれらの地域の「現在」が描かれることはなかった。このシリーズは中国政府の検閲下で撮影され、編集されていたからである。

 それと比較すると今回の映像は可能な限りギリギリのところでチベット人の言葉と信仰を護る戦い、すなわち「現実」を描いていた。お坊さんの僧坊にガンジーやキング牧師やオバマ大統領のポスターがはってあって、ああ、間違いなくダライ・ラマのポスターもうつっていないどこかにあるな、と分かったり、彼らがチベットの子供たちの漢化を少しでも防ぐためにチベット語の野外講習をやっていること、彼らの肉も食べず、もちろん異性交際も行わないまじめな生活についてもきちんと伝えていた。中国政府が僧坊を破壊した件については「僧侶たちの姿が僧院から消えた」とナレーションがでて「嵐が過ぎ去るのを待て」とみながささやきあっていたなどと間接的にだけど、彼らが理不尽な目にあっていることを伝えていた。
 がんばったと思うよ、NHK。誰でも見られる地上波でも再放送してほしい。
 私の3月11日はラルン・ガロの僧院を拝んで終わった。
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