白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2016/12/29(木)   CATEGORY: 未分類
「祖国の土が子供たちのもとに届く」
クリスマスの夜、目黒川のイルミネーションを尻目に、非リア充は亡命チベット人監督テンジン・チョクレーによるドキュメンタリー bringing Tibet home (原題 pha sa bu thug「祖国の土が子供たちのもとに届く」2014年)を見に行く。

 途中、平成24年に目黒川のほとりに閉館となつた「川の資料館」を発見して暗澹たる気持ちになる。都内ですらこの手の資料館が閉館しているなら、淡路島歴史資料館のてこ入れなんて夢のまた夢である。

 監督は韓国で映画の勉強した人であるという。何かそのような話を聞いた気がするのでメールを検索すると、Kくんのニューヨークからのメールで、この監督が日本にくるのでその時、この作品を日本で上映できないかという問い合わせがあった。しかし、その日程があまりにビジーだったので日本語字幕をつけるのが間に合わないだろうと答えたような気がする。そうか、あのドキュメンタリーか。

 あらすじはこうである(盛大なネタバレをします)。

 詩人で現代芸術家のテンジン・リクドル(1982-)は亡命チベット人二世だ。両親は1959年にヒマラヤをこえて亡命し、ネパールでリクドルら兄弟を生み、アメリカに移住した。しかし、父親が癌宣告をうけ、「チベットに還りたい」といいながら死んでいく。リクドルは父親と同じく、チベットへの帰還をねがいながらも果たせない亡命チベット人たちのために、一つのパフォーマンスを思いつく。

 それはチベットの土を20トンネパール経由でインドに運び出し、亡命チベット人たちにそれを踏んでもらい、その反応をみようというものである。

 で、リクドルは少年期をすごしたネパールに向かい、幼なじみのトゥプテン(ネパール在住)をコーディネーターとしてプロジェクトを始動する。しかし、当初「簡単だ、四日でつく」と言われた土はえんえんと到着しない。

 聞けば、国境外に土を運び出す許可がとれず、さらに、中国がチベットを併合した17ヶ条条約締結60周年のせいで国境警備が厳しくなっているからだという。

 リクドルは「四日ですむといっておきながら、なんでこんなに時間がかかるんだ!」と苛立つが、たしかに仲介業者もいー加減だが、土の輸出入の可否とか、検疫とか関税とか何も調べていないリクドルもいー加減ではないか(少なくとも日本は外国の土はもちこめないとのこと)。

 そして結局、土を小分けにして、密輸業者にワイロをはらって国境の川をまたぐ密輸ワイヤーをつかってネパール側にもちこむことに成功する。私はこれを見て、「こんな苦労するくらいなら、土はあくまでも象徴なのだから、日本のお砂踏みみたいに少量でよくて、みなで行列になって順々にふめばいいのではないか」と思った。

 しかし、そのようなつっこみをすべて覆す展開がラストにまっていた。

 トラックにつんだ " チベットの土"はネパールに入ってから、別の袋につめかえられ、増水した川に足止めされたりとしつつも、50の検問を突破してようやくダラムサラについた。そこは亡命チベット人の政府機能の中心地であり、ダライ・ラマのいる場所である。

 リクドルたちは「Our Land Our People」という横断幕を町に貼り、翌日のイベントを告知し、会場となるチベット子供村のバスケットボール会場に20トンの土をひろげる。

 Our Land Our People! これはダライラマ14世が亡命直後の1963年に血の涙を流しながらつづった自伝My Land My peopleチベット我が祖国へのオマージュではないか!

 イベントの行われた2011年10月26日の朝、リクドルは「チベットの土」を手に捧げて、ダライ・ラマを表敬訪問した。ダライ・ラマは「中国の知識人は真実を知れば私たちの味方になってくれる。中国人の協力なしにはチベット問題は解決しない」といいながら、土の上にチベット文字で「bod(チベット)」と記した。
テンジンリクドル少女

 イベント会場においてはダライラマのご真影が中央に飾られ、チベットの旗がひるがえり、ロプサン・センゲ首相の挨拶などがなされ、BBCもきて(テンジン・リクドルはロンドンのLossi Lossi 美術館と協力してこのイベントを行っている)なかなか盛大なことになっている。

 しきつめられたチベットの土のまわりで、チベット子供村の子供たちがお遊戯を始める。その歌詞は
「私たちは一生懸命勉強して、一生懸命勉強して、チベットの地にかえります。チベットの地に還ります」この時点で涙腺がゆるんでくる。まずい。

 それからみなが次々とチベットの土をふみ、その感想をマイクを通じて集まった人々に届ける。
 小学校低学年くらいの小さな女の子がしゃくりあげながら「すべての亡命チベット人がいつかチベットの地に還れますように」というと、マイクをもっていた若い女性もいっしょにもらい泣きをし、みな感極まる。
テンジンリクドルダライラマ

 リクドル「チベットから土をもってくる時、あんまり大変だったので、もしこれが最初からわかっていたらいろいろ考えすぎてしまったかもしれません。この土は私たちチベット人と同じ。中国人に追われて国境をこえるまで転々としながら、時には違法な仲介業者にお金をはらって国境を越えねばならない。祖国が植民地化された私たちには居場所がありません。祖国にも亡命先にも世界のどこにも安住できる場所はありません」

 実際、ここ数年ネパールは、経済的に膨脹した中国によって完全にコントロール下にいれられ、亡命チベット人が暮らしづらい社会となっている。

 このドキュメンタリーでもリクドルは「自分が住んでいた子供の頃よりもネパールがギスギスしている。チベット人街への警察の監視が厳しい。」「中国人はネパール国境30キロ圏内ではチベット人を逮捕できるらしい」「国境近辺にはチベット語をしゃべる中国のスパイがたくさんいる。やつらは非常にソフトににこやかに接してくるが、こちらの情報をとりにきているから注意しろ」みたいな話がそこここにでてくる(今はさらにギスギスしている)。実際、ネパール在住のチベット人は動ける若い世代からカナダ、アメリカへの移住を続けている。

 リクドルの手足となって国境での交渉に当たった幼なじみのトゥプテンはネパールに住んでいるのによく顔出しできるなあと感心していたら、後でSFT Japanの人に伺うと、そのまま彼は亡命したそうな。

 話をイベント当日に戻すと、「祖国の土」は三日間展示されたあと、自由に持ち帰れることになった。チベット人たちは、甲子園の球児たちのように土をペットボトルや袋にいれて、各自自分の家に持ち帰った。20トンの土はまもなく跡形もなく消えた。

 「お砂踏み」程度の土の量ではこの需要にこたえることはできず、この光景を見られなかったことを考えると、リクドルの無計画さも意味をもつ。合理的な判断が必ずしも正しいわけではないのだ。

 リクドルは「このプロジェクトは、亡命チベット人がいつかは故郷に帰ることができるという吉祥の証である」とあつく未来を語っていた。中国がきめた国境とか、関税とか、権益とか、規制とか、それらをこえてもちだされた祖国の土はたしかにプライスレスなものとなっていた。

 このドキュメンタリーのサイトと、当時のBBC記事をつないでおきます。
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DATE: 2016/12/21(水)   CATEGORY: 未分類
2016年のチベット三大ニュース
 来年もチベットをあなたのお側に。そうです2017年のチベット・カレンダーのサムネイルならびに購入サイトはこちらです。このたびは写真家の野田雅也さん、ルンタ・プロジェクトの中原一博さん撮影の写真、並びに、フォトコンテストの応募作品により、構成されています。もちろん、チベットの祝祭日もはいってます。 

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 来年は「チベット大僧院のトイレ・シリーズ」というテーマ・カレンダーを作ってはどうかと一部で盛り上がっているが、「トイレ」はともかく、チベット高原の花鳥風月(特に、鳥、鳥、鳥!)」「チベットのシャーマン」みたいなおとなしい統一テーマであったら意外といけるかもしれまん。

 今年はヨーロッパのイスラムテロで幕を開けたかと思うと、あれよあれよという間に、理想を語る言葉が他者をののしる言葉にとってかわられ、人々が融和から排除へと向いはじめた。イギリスはEU離脱を決議し、アメリカに移民排斥を唱えるアレな大統領が誕生し、ロシアと欧米はシリアで代理戦争を行い結果アサドが勝ち、世界中でガハハな指導者が「他人のことなんてどうだっていい、自分の利益だけ考えるぜ」「死ね」とか醜いホンネを主張したのであった。みなが自分のことだけ考えれば、万人の万人に対する闘争がはじまり、結果、全体としては破滅に向かう。もう人類全体が滅びの道を自主的に選択しはじめたかのようである。間違いなく歴史に残る一年であった。

 しかし、オーストリアの大統領選だけはかろうじて踏みとどまった。これはおそらくはオーストリアが敗戦国であることと無縁ではあるまい。先の大戦で、敗戦国は国土を焼かれ、70年間戦争責任についてののしられ続けてきた。戦のむなしさを骨身にしみてわかっている敗戦国は、軽々にパワーゲームにのめり込まない。

 また、任期最終年のオバマ大統領も駆け込みレガシー作りでアメリカが戦場とした国、対立していた国々をまわり和解を演出した。ベトナム戦の跡地をまわり、原爆投下地点で献花し、キューバと国交を回復し、安倍総理大臣をパール・ハーバーへ招いた。そして、ダライ・ラマである。これまでオバマ大統領は中国に対する配慮から、ダライ・ラマと会見してもそのツーショット写真をメディアに公開しなかったが、本年6月15日に行われた4回目のダライ・ラマとの会見はその禁を破り、ツーショット写真を披露した。
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 ちなみに、12日後の6月27日にはレディー・ガガがダライラマ14世のツーショットをインスタグラムに投稿すると、中国のネット民はガガに「中国人はあなたがビン・ラディンと握手しているように見える」と罵詈雑言をとばした。あの温厚な平和主義者のダライ・ラマをテロリストと国民に教えこまなければもたないのだから、中国も哀れな国である。そういえば、アパルトヘイトまっさかりの南アフリカでは、無学な白人たちは、非暴力路線で人種の平等を訴えていたANCをテロリストと呼ばわっていた。

 そして、長年軍事政権に軟禁されていたアウンサン・スーチー氏は、今年したたかにミャンマーの政治の中枢にくいこむことに成功した。これによって、非暴力をもって戦う人々は、ダライ・ラマをのぞきすべて政敵を倒すことに成功したことになる。複雑である・・・。

 今年の訃報としては4月29日にサキャ派のトップであるダクチェン・リンポチェ=ガワン・クンガー・ソナムがシアトルにおいて88才でなくなった(ソースはここ)

 また、5月7日には日本に何度も来日されていたゲン・ロサン先生が肝炎によって逝去された。ゲン・ロサンはインドのチベット文化圏ラダックに生まれ、ダライ・ラマの摂政をだす四転生僧のうちの一つクンデリン・リンポチェの師をつとめ、かつ、次期ギュメ管長である副管長に就任中であった(詳しくはここ)。

●以下、チベット社会全体にかかわる三大ニュースを選んでみた。

(1) ラチェン・ガロの弾圧が再開する

アムド(東チベット)のニンマ派の僧院、ラチェンガロ(Larung Gar) は、チベット人ばかりか漢人の修行者を集めて巨大化した結果、江沢民政権の終了時に迫害にあい、大きな海外ニュースとなった。その後、胡錦涛政権においては宗教のもつ道徳的な側面を社会秩序の維持に利用しため、ラチェンガロも再び巨大化が加速していたが(『東チベットの宗教空間』参照)、本年7月21日、定員までに僧の人数を減らすとの名目で、中国当局は再びラチェンガロの僧坊破壊に着手している(ニュースはここ http://www.phayul.com/news/article.aspx?id=37843
)。
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 BBC などの欧米のマスコミはこれを宗教弾圧として奉じてきたが、日本の某テレビの人は欧米の逆張りをしなければならないと思ったのか、「お坊さん達が特段の抵抗をしていないのは、僧坊が壊されて更地になれば、地上げができて坊さんが儲かるからではないか。」「北京の高級ホテルはチベット僧の衣をまとった偽坊主でいっぱいだ。あなたはこれについてどう思いますか」と私に聞いてきた。

 私はこう答えた。「お坊さんが抵抗しないといいますが、デモの自由のある日本じゃないんですから簡単に言わないでください。ダライ・ラマはチベット人に『中国人がダライ・ラマを批判しろ、と命令してきたら、その通りにしなさい。彼らに逆らって投獄されたり、僧侶をやめさせられたりするよりはいいです。私は全然気にしませんから、中国人の言う通りにして身を保ちなさい」と常々いっています。

 偽坊主については、そもそも人々が信服するような徳のあるお坊さん、その多くはインドの僧院で育った人々ですが、彼らは入国禁止です。それに当局は僧院の教育課程や修行を妨害し徳のあるお坊さんが育つのを阻止する一方、偽坊主は大勢に影響がないので放置しているんですよ。チベット仏教の評判が下がっても当局にとっては痛くもかゆくないですから。

 それに、偽坊主にチベット人が含まれていたとしても、漢人に支配され二級市民の扱いを受けているチベット人が文化を捨てずに生きていく道がすくない以上、坊さんのコスプレをその一つとして選んだとしても、安全圏にいる我々が、それを非難する権利があるでしょうか。正確にチベット仏教を報道したいのであれば、中国支配下のチベットの偽坊主ではなく、南インドに再建されたゲルク派の僧侶をみてからにしてください
」。

といいつつ気づいたのは、この記者は、長い中国駐在の間に、漢人知識人視点に同化してチベット人をみていたこと(仏教に向かう漢人は彼らから見るとちょっとおかしい人なのかもしれない)。この漢人知識人の視点はかつての日本の知識人の視線とも似ている。彼らはチベット仏教を自分たちの先入観でみており、その哲学の真髄については無知であり、無知であることすら自覚がない。

(2) 11月、ダライラマ14世はモンゴルのジェブツンダンパ9世の生まれ変わり、すなわちジェブツンダンパ10世を認定。

 その歴史的意義については直前のエントリーで解説しました。

(3) メンツィーカン(医学暦学堂)が創立100周年(3月23日)
 チベット医学はチベット高原の多様な動植物を薬材とインドのアーユル・ヴェーダ医学の理論を特色とする非常にユニークなものであり、メンツィーカンでは薬の製造、医療行為とならんで、暦の出版も行っている。ラサにはすでにダライ・ラマ5世やその摂政サンゲギャムツォによってチャクポリ山の上に医学堂があったが、なぜ、1916年にメンツィーカンが創設されるにいたった背景については、日本で最初のチベット医小川康さんがここで考察している。

●個人的な三大ニュース

(1) 9月『ダライ・ラマと転生』(扶桑社新書)の出版。
(2) 11月清風学園でダライ・ラマ14世が導師となったチッタマニ尊の灌頂を受けたこと。
(3) 全体ニュースとかぶるが、ジェブツンダンパ10世がダライラマ14世によって認定されたこと。
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DATE: 2016/12/07(水)   CATEGORY: 未分類
ジェブツンダンパ10世の認定
 ダライラマは11月8日に成田に到着し、清風学園と高野山で灌頂を、清風学園、世田谷学園、横浜などで講演を行われ、18日に成田からモンゴル国の首都ウランバートルに向かった。そして23日にウランバートルから再び成田に戻り、休養・クローズドの講演の後、27日午前、成田空港からインドへ帰還された。つまり、今回の来日はモンゴル行脚とセットになっていたのである。
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 日本人は法王が日本に滞在されている間にはその動向に多少の関心を持つが、いったん他国へ離れると興味を失い日常生活に戻っていく。しかし、今回のモンゴル行は〔仏教史的には〕非常に大きな歴史的事件、すなわちジェブツンダンパ10世の認定が行われたのでこれに注目してみたい。

 ジェブツンダンパという転生僧は17世紀の初代がダライラマ5世とパンチェンラマ1世の弟子であり、歴代モンゴル随一の権威をもち、ジェブツンダンパ8世にいたり、1911年に独立モンゴルの国王になった高僧である。ジェブツンダンパ8世なきあと、モンゴルはソ連によって社会主義国に改変させられ転生僧の政権は否定されたため、ジェブツンダンパ9世はチベットで誕生しチベットで養育され、ダライラマ14世の亡命とともに、インドに逃れた。

 今回、清風学園のチッタマニ灌頂の法話の初日(2016年11月11日)に、ダライラマ法王は死の瞑想の話をされる際、たとえの一つとしてジェブツンダンパ9世の死の思い出話をされた。

 ダライ・ラマ14世「先代のジェブツンダンパ9世が亡くなる前、重病で口をきくのも大変そうだったが、私が「来世もモンゴルで活躍しなさい」といったら、〔ジェブツンダンパ9世から〕電話があって、「どこで死んだらいいですか?と聞かれたので、「正月にモンゴルで死になさい」といったら一月四日にモンゴルで死んだよ。〔前首相〕サムドン=リンポチェが私の代理で白いカターをもってモンゴルにとんだら、遺体にカターをかけた瞬間に鼻から血がでて死の瞑想が終わった。私のカターを待っていたのかな。」

 この時私は「ジェブツンダンパのエピソードだけやけに詳しいな」と思ったが、翌日、「これはまだ内緒だが法王はこのあとモンゴルを訪問される」と聞いて納得した。おそらく今度の法王のモンゴル行はジェブツンダンパ10世の認定問題が絡んでいると。

 というわけで、まず、たたき台として法王公式サイトからダライラマのモンゴル日程を粗々書き出すと以下の通り。
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 19日にウランバートルのガンデン寺で『ナーランダー僧院の17人の成就者たちへの祈願文』他法話。20日はマイナス40度の厳寒の中、ブヤントウハー・スポーツセンターにおいて一万人以上の一般人の前でミグツェマの口頭伝授、21日は、トリティア・ダルマ・チャクラ財団の主催による仏教科学と現代科学の対話と題する国際会議。22日は記者会見、そして若者たちと交流し、23日にウランバートルから再び成田に戻った。

 この間22日の記者会見の席でャーナリストの質問に答える形でダライラマは、ジェブツンダンパ10世の認定問題に触れられた。モンゴル在住のIさんからモンゴル語のニュース・サイトの記事を教えていただき、重要な部分を抜粋して翻訳した。私の現代モンゴル語力はかなり信用できないので、原文が読める方は原文をご覧ください。

 ジャーナリストの最大の興味は、9世ボグドの後継者を認定したかどうかについてであった。この問題についてダライラマ14世法王は・・・(中略)・・・モンゴルのジェブツンダンパ=フトクトは長い歴史をもつラマだ。昔昔のダライラマたちとも因縁がある。ジェブツンダンパ9世が亡くなられる前、「私はいつ、どこで死にますか? 次はどこに生まれますか? 」と 私に尋ねたことは素晴らしい事であった。最後に会った時、私は彼に「あなたのお体の具合は悪い。年も高齢だ。あなたの来世生まれる地はモンゴルのようだ」と申し上げた。
ジェブツンダンパ9世の生まれ変わりを認定するのは私の疑問の余地のない任務だ。ジェブツンダンパ9世の生まれ変わりはモンゴルにおいて生まれた徴が明らかである。しかし、その子は若いので、今はコミュニティに招く必要ないと考えている。
三才から五才になった時に〔即位を〕考えなければならない。幼子を獅子座に招くのは難しい。大きくなって経典や学識がついてから、命あるものたちに利益を届けねばならない。私は「髙い座に座ったことにより、仏教を行わない」という〔例をたくさん見てきた〕。チベットにおいて大ラマの生まれ変わりは〔勉強しなくとも〕学識・経典は自然と生まれるという噂がある。このような話は。昔から仏教を理解しないものの誤解のデマである。改めなければならない。〔つまりジェブツンダンパにしっかり仏教の勉強と修業をさせるように言っている〕

質問「仏教の三高峰、乃ちパンチェン・ボグド、ダライラマ、ボグド・ジェブツンダンパたちの生まれ変わりを認定する際には、常に論争がありました。パンチェンラマにしても、あなたが認定した方と中国政府が即位させた方の二人がいます。ジェブツンダンパ10世を認定するとどんな問題がおきますか? あなたが認定した子を〔中国政府が認定した〕パンチェ・ラマが認定しないこともありえますか。このような不明瞭な問題がおきたならどうするおつもりですか。

ダライ・ラマ「そうそう。パンチェン・ラマは今二人になっている。確かに将来、ダライラマも二人になることは確実だな(笑)。だから驚くようなことではない。政治問題はちょっとした理由からも、変化していく。重要なのは〔変化しない〕仏教である。経典を聞いて、考えて、伝え、広めることが重要だ。これ以外のパンチェン、ダライラマを招くことは重要ではない。仏教を聞き、考え、実践することこそが大切なことなのだ。

 つまり、ダライラマ法王はジェブツンダンパ10世の認定はした。しかし、まだ子供で仏教の勉強もしないうちに高座につけて崇めても意味がないので、もう少し育ってから発表しよう、と言っている。そして、中国の認定した「なんちゃってパンチェン」がジェブツンダンパ10世を別に認定したらどうすると問われた際の答えは、暗にジェブツンダンパ10世の養育係に、彼をきちんとした学識ある僧に育てろとの重要なメッセージを含んでいる。
 
 チベット世界でこの転生制が続いてきたのは仏教の存続に有効なシステムであったからだ。実際子供の頃から仏教によって涵養されたダライラマ14世は、たった15歳で国を失ったにも関わらず、いまにいたるまでチベット人の心をまとめあげ、仏教界の大黒柱となり仏教を広げつつ、なおかつ世界平和のアイコンになるというスーパーな活躍ぶりを発揮している。彼の明るい姿をみて彼が難民であると深刻な問題を抱えている人であるとは誰も思わないであろう。仏教を実践した結果があのお姿なのである。

 勉強をきちんと治めて人心をまとめることのできる大ラマはその死後再び転生者が探索される。しかし、大ラマの転生僧であっても勉強も修業もしない残念なラマは、最終的には転生は断絶する。前世がとくに大ラマでなくともめざましい活躍をすればその人の転生は探索されるし、大ラマであっても残念な人は次第に誰にも見向きもされなくなっていく。
 実は転生僧の世界も厳しい実力社会なのである。
 ジェブツンダンパが頭の良い子であってほしいと心の底から思う。残念なラマで終わらないでほしい。
 ジェブツンダンパが果たしてどのような僧になるか。モンゴルの人心をまとめモンゴル仏教界をひっぱっていくカリスマ性を持つか、それとも残念な結果に終わるか、それはモンゴルの僧たちのジェブツンダンパの養育いかんにかかっている。

 良い僧になってくれ、ジェブツンダンパ!
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DATE: 2016/11/23(水)   CATEGORY: 未分類
身延山でチベット学会
 先週末、身延山大で開催された日本チベット学会に参加してきた。
身延山は言うまでも無く日蓮聖人のご遺骨を祀る"棲神の地"。実は日蓮宗は伝統的な宗派としてもそれなりに大きいが、メジャーな新興宗教(創価学会、霊友会、立正公正会)なども日蓮系であり、マイナーなものも加えればそれはもう日本に日蓮系の宗派はゴマンとある。多くの人々に支えられているため伽藍はすごい立派。

 身延は遠い。立川か八王子から特急あずさにのり、甲府で身延線特急ふじかわに乗り換えるのだが、この「ふじかわ」が二時間に一本しかない・・・。そして身延駅から久遠寺も車で15分かかる。都内を在来線でいく区間はたちっぱなしとなるので、感覚的には大阪に新幹線で行くより疲れる。さらに、旅立ちの朝は土砂降り。旅先で傘を忘れるだろうという揺るぎない自信があったため、さすのは小さな折りたたみ傘ではなく、大きめのビニール傘にする。忘れてきてもどなたかが有効利用して下さるだろう。

 身延駅前から乗ったバスが身延山に近づくと両側から山が迫り、小林守先生をして「タルツェンド」(中国からチベットに入る境界の町で、ここからチベット高原ですということが体感できる地形の地)といわしめた渓谷に入る。山内は小さな門前町があるだけでコンビニはない。
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 大学の受付で懇親会費と参加費を払う段になり、同じバスで山についたIセンセが「石濱センセー、お金下ろしてくるの忘れました。お金貸してくれませんか」と言われたので、いいよ〜と快く財布だしてお金わたすが、よく見ると私もお金下ろしてない(笑)。仕方なのでK嬢から借りる。まさに借金の連鎖である。

 しかし、主催校のホスピタリティは素晴らしく、宿坊にとまったのだが、万が一早稲田が開催校になったら、このレベルのおもてなしが私にできるのかと自問自答してみる。もちろんできない。

 学会の最初はチベット情報交換会であり、岩尾一史さんは敦煌莫高窟に残るチベット文字で書かれた巡礼の落書きについての研究紹介、大場恵美先生はお釈迦様の数ある前世を描いたタンカセットの研究紹介、コーナー最後は今年で会長を退任される長野泰彦先生の任期中にクリアしていった課題についてのモノローグであった。

 続いて放射線がとんできそうなタイトルのワークショップ「チベット学研究のホット・スポット」。私はこのコーナーの三番目の発表者。

 開始前に、係の方がパワーポイントのテスト投射をするというのでマックをプロジェクターにつなぐと、愛鳥ごろう様の写真がスクリーンにでるもののパワーポイントはうつらない。会場から失笑がもれるので、「すいません、マックに詳しい方がいらっしゃいませんか」と呼びかけると、来年度からの新会長となる武内先生が「ミラーリングすればいいんですよ」と画面が写るようにしてくださった。しかし、本番でも同じ現象がおきたため、会場は再び失笑につつまれた(操作覚えろよ自分)。

 本コーナー最初は別所裕介・海老原志穂両先生による遊牧民の強制定住をめぐる問題提起。世には大きく言って遊牧民に昔のままの生活を送らせろという意見と、定住させて近代化させろという二つの意見がある。それに対して、まず遊牧民自身がどうしたがっているかを受け止めて、伝統的な遊牧技術を残しつつビジネスとしても成立させているという三事例を紹介する。続いてが星泉先生の現代チベットの長編小説の内容・出版状況についての報告。三番目が私で、清朝皇帝が20世紀初頭、チベット・モンゴルの実効支配にふみきると、両地域は清朝皇帝を「菩薩王」失格とみなし、1909年にはダライラマ13世が中国と断交、1911年にモンゴルのジェブツンダンパ8世は独立を宣言。後者の即位式はダライラマ13世の即位式のパクリであった。当時のチベット仏教世界は、中央と地方、モンゴル人チベット人という地域性・民族性の対立はあったものの、総体としては、ロシア・清朝の弱体化にともない政教一致の神権国家が栄え、独自の人的交流もすすんだ非常に活発な時代であったという話。

 初日はこれで終わり、総会で会長が長野泰彦先生から武内紹人先生に交代したことなどが報告される。武内先生は「私はアメリカのコロンビア大学在学中に国際チベット学会の第一回にでたのですが、その頃は35人くらいで、こじんまりした大会でした。そのチベット学会は今は巨大化してしまいました。日本チベット学会はこの規模でいいと思います」と就任のご挨拶。

 初日は懇親会の後お開きで、各自予約した宿坊にひきあげていく(山内にホテルはない)。私は主催校の望月海慧先生の宿坊、樋之澤坊にお世話になり、先生の人格者ぶりとホスピタリティに驚く。
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 翌朝、久遠寺本堂では早朝5時から朝勤が始まった。睡眠薬を忘れた私はもちろん五時起きしていたものの、宿坊まで車で送られており、本堂までの道のりがわからないためあえなく参加を断念する。くっ。

 夜が明けて外を見ると宿坊には美しい日本庭園が併設されており、その上を霧が通り過ぎていく。幽邃である。そこで朝食のあと、比較的宿坊から近い日蓮聖人の墓所にダッシュする。霧にぬれた参道の石畳につるつるすべりながら、高速で拝観し、再びダッシュで宿坊に戻り、身延山大学に向かう。

 最初の三人は民族学及び歴史で、カザン氏は東北チベットの血縁集団「ツォワ」(tsho ba)の祭事などつにいて、手塚利彰先生は出版済みの法律文書10冊の成立の先後関係を論じ、石川巌先生は敦煌文献にある七女神の名前が、チベットの護法尊十二教母の名前と重なることを提示。次のお三方は仏教学で、ラモ・ジョマさん「ツォンカパ中観思想における「戯論」の位置付け」、崔境眞さん 「チャパ・チューキセンゲの刹那滅論証理解:Pramāṇaviniścayaに対する註釈を中心に」、石田尚敬さん「ゴク・ロデンシェーラップ著『五巻本の解説』(Bam po lnga pa’i bshad pa)の構成」など。近年カダム派の文献を集めたカダム派全集120巻が刊行され、この文献を用いてゲルク派の教義の原型についての研究が盛んになるであろうことが期待されている。

 発表が終わると、ほとんどの人は山内観光にでかけたが、私は昨日仏殿も祖師殿も拝観していたのと睡眠不足で疲れ果てていたのですぐ辞去する。
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 ●今回の旅で印象に残った歴史的なもの

 宝物館にあった「蒙古退治旗」。黒字に金字で法華経が書き込まれたすごい旗だった。

 ●今回の旅で心に残った言葉

 身延山三門にあった宮沢賢治の歌碑

塵点の劫をし過ぎていましこの(計り知れないほどの年月をへたいま今生で)
妙のみ法にあひまつりしを(法華経の貴い教えに出遭いました)

 ●今回の旅で聞いた笑えるエピソード。

 東チベット(アムド)のおじさんが北京にきて、どこに行きたいかと尋ねると「毛沢東記念堂」と言った。意外に思ったけどついていくと、そのチベット人のおじさんに依ると、毛沢東はアムドでは魔除けのお守りなのだそうな。
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DATE: 2016/11/13(日)   CATEGORY: 未分類
清風学園チッタマニ灌頂(その1)
 前エントリーで書いたように、グヒヤサマージャ(秘密集会)の砂マンダラの開壇式に列席した時、わたしは満月の日の成満を信じて疑うことはなかった。しかし、わずか二日後には状況は一変した。西早稲田の駅でケータイを確認したところ平岡先生の着信があったためかけてみると、沈んだ声で「家に帰られた時間に電話します」という。何かあったなと直感したが、家に帰ってかかってきた電話は想像のK点を越えていた。

 宏一センセ「ダライラマ14世猊下の体調が思わしくなく、体力に負担のかかるグヒヤサマージャはキャンセルしたい、チッタマニ・ターラー尊の灌頂に変更してくれと言われました。センセ(私)にとってはかえってよかったかもしれませんね。」

 私は四半世紀にわたり、宏一センセがグヒヤサマージャの研究と行を行っていたことを知っていたため、「えええ、でも砂マンダラつくってますよね。どうするんですか。そのためにお坊さんたちだってギュメから11人も呼んでいるし。本当なんですか。去年法王がいらした時は日本にいらしてから許可灌頂を本灌頂に変更されました。日本にこられたら気が変わられるかも知れませんよ」といってみたが、返事はない。しかし、砂マンダラは継続してしあげるようにと指令があったそうである。

 灌頂初日、法王は開口一番「この二ヶ月の間に二度ヨーロッパにいって、それからインド国内でも法話会をやり正直疲れました」とおっしゃり、その表情を見ると確かにお疲れがみえていた。いつもは日本語通訳が話しをしている間は会場内をみまわして人々に笑顔を向けるのだが、今回はそれもあまりなさらなかった。

 なにしろ、法王は81才である。世界中どこにいっても在外チベット人や仏教徒や政治家やその他もろもろの謁見希望者が殺到するため、側近の仕事は法王様の仕事をいかにセーブするかに重きが置かれている。しかし、法王様は自分を求めて集まってくる人をみると、必ず側によびよせ多くの人に会おうとされる。突然「車を降りてあそこまで歩く」などといいだし、本当に道ゆく人々に歩きながら笑顔で話しかけていくため、すぐに人だかりができ、予定もおしていく。あたかも、一人でも多くの人にあい、その心を慰めようとしているかのような、観音様そのもののような生き方である。

 今回こんな話があった。宏一先生の弟君が、ホテルの前で法王の到着をまっていると、どこかで知ったのか一人のチベット人女性がホテルのまわりをマニ車を片手に巡拝していた。それを見ていて可哀想になった弟君は「××分くらいに法王が到着するよ。他の人にいっちゃだめだよ」と教えてあげると、そのチベット女性は「夫にだけは言っていいですか」と聞くので「夫ならいいよ」といったら、その夫婦は到着した法王をみるやボロボロ泣き始めた。こういう人たちが世界中にいるのである。法王が多くの人と会おうとする気持ちも分からないではない。

 このような事情を良く知る立場にある宏一センセはグヒヤ・サマージャがキャンセルになったからといって、法王にあれこれいうこともなく、ただ心がばっきりと折れた。サマヤのYさんによると「スタッフでミーティングをやっていると、宏一先生がふらふら入ってきて、おかしなことをいいだしたんです。その異様さから『もしや来日が中止になったのか』と固唾をのんだら、チッタマニに変更されたとのことで、お坊さんたちは切り替えが早いから、じゃあこれからどうしようかと次の段取りを相談しはじめました」

 しかし、後に宏一センセは「私のショックを理解してくれたのは、お袋と、マリアさんと石濱センセだけですよ」と寂しく笑っていた。何と言っていいやら・・・。

 そして、スタッフも大変だった。内容が変更になったことにより、その通知。希望者のキャンセルの受付、問い合わせへの応答、日程表の組み替え、すでにできあがっていたテキストの差し替えなどにより何日も寝ない日が続いた。キャンセルの理由で一番すごかったのは「ダライラマが来られなくて、チッタマニというお坊さんが代わりにくるからキャンセルしたい」というものだった(爆笑)

 さて、法話の内容はまだ整理していないので、次回として小話を。

小話1
今回私がとまったのは宏一センセに予約して頂いた某高級ホテルであったのだが、偶然、法王様の真下の部屋だった。法王様の部屋はもちろんスイートで私はシングルであるから、部屋の半分か三分の一であり、私の真上はひょっとしたら側近のたまり場たったかもしれないが、それでも真下である。

 宏一センセも「こういうことってあるんですねえ」と感心してた。チベット建築では法王様の部屋は最上階につくられ、誰も法王の上に足をおかないように作られている。かつて、かつてのチベットでは正月十五日に法王がパルコルの巡礼路を供物のトルマをみるために周遊する伝統があったが、その時も法王をみおろさないようにみな1階におりて拝礼した。なので、足下にいられるのはチベット的にいえば蓮華座を支える(えっへん)ことになるので実に光栄なことであった。そして最終日にシングル三日のお会計をみて、「さすがに法王様の部屋の真下」とそのプライスレスさに感心したのである。

小話2
 今回、拙著の編集者が会場で拙著を販売してくれた。私より先に会場に入っていた彼女からメッセージがきて、そこには机の写真があり「先生がサインすると売れ行きがよくなります。机を準備しました。ここでサインしてください」とメッセがついていた。仕方無いので法話が終了するごとに、机に行き、ひたすら自著へサインをすることになった。初日にはあまり宣伝していなかったため、「護国寺・東大などの講演においても買いました。これで三冊めです」というヘビーユーザーかおみえになり、子供の発表会にきてくれる親戚や家族みたいな雰囲気であった(カツジさん、ありがとうございます!)。二〇〇〇〇年とか間違えてかいても喜んでうけとって下さる心の清い方々である。

 二日目は退場の時間をつかって主催者が宣伝をしてくださったおかげで、私のことをこれまで知らないですんでいた人まで来て下さり、また、清風学園の先生方や一緒にギュメにいったみなさんや、旅行社の添乗さんまでいらしてくださった。いろいろな方にお会いできてとても楽しかった。

 小話3
 初日の晩、編集と私とサマヤのYさんと宏一センセで夕食をとったところ、衝撃の事実を知った。私の家の仏壇にはテンパゲルツェン師から拝領した観音菩薩・文殊菩薩・金剛手菩薩という仏の智・慈・力を象徴した三部の依怙尊がセットがあるが、最初に頂いた観音菩薩は何と平岡先生がダライラマ14世猊下から下賜されたものをテンパゲルツェン師に献上したものであった。つまり、うちの観音様、もとはダライラマ14世猊下のもの。
 うちの観音様のタンカも去年法王様主宰の灌頂に使用して頂きサインもいれて頂いているし、チッタマニ尊(ターラー尊は観音様の分身)も2014年にギュメ密教大学から拝領した優品なので(ものすごく美しい。びびった)、それ相応の働きをしないと佛罰があたりそうで、超こわい。

 小話4
 去年の観音菩薩の灌頂は日本人に評判が悪かった。中国人、台湾人、モンゴル人の数が圧倒的に多く、彼らは式がおわったあと、壇上にあるお供えやダライラマ法王の周りあったものなどをすべてさらっていったからだ。(これは信仰心のあまりにしたことだが、日本人には略奪にしか見えなかった(笑)。

 しかし、チベット人もダライラマ法王が顔をふいたタオルとかをそっと懐にいれたり、おいていった割り箸をそっと包んでもってかえったりして、法王様のふれたものをできるだけ手に入れようとする。

 今回もガワン先生の弟子チューロ・リンポチェはステキなコップをもってきて、宏一センセに「機会があったらこのコップをつかって法王様にお飲みものをだしてください」と頼んでいた。それを返してもらって自分で宝物にするのかと思いきや、それを自分が帰ることのできないふるさとの人々の手元に送るのだ、という。泣ける話である。

 2008年、ガワン先生が最後にインドにお帰りになる時に宏一先生に譲られた法具のでんでん太鼓は、サランラップにくるまれて大事に宏一先生の仏壇にしまわれている。サランラップはガワン先生以外の人の手が触れないようにしその法力を封印するためだ。

 話変わって、このたびの二日目の朝、宏一センセから突然電話があり、「本日の昼ご飯ダライラマ法王の昼ご飯にMさんと一緒にどうですか」と言われ、拙著をもって伺ったところ、法王さまは拙著を手に取って写真をばらばらとご覧になって下さり、「中国はいろいろニセの情報を流しているから、真実に基づく話は重要だ」とおっしゃって机の上においた。食事のあと、私は法王が手にした拙著を手に取り、おもむろに給湯室に行くと、サランラップにくるんだのであった(爆笑)。

 みなさまお疲れ様でした。

今気がつきましたが、この記事800エントリー目です。
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