白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2017/04/03(月)   CATEGORY: 未分類
ペテルスブルグ紀行17(学術編)
 卒業式の翌日からロシアのサンクト・ペテルスブルグに出張した。到着した26日日曜日はモスクワをはじめとする各地で反プーチンデモが炸裂していたが、ペテルスブルグは平穏だった。ダイナーで食事していたらやたら軍人や警察官が目についたくらいかな。

 ペテルスブルグはいうまでもなくかつてのロシア帝国の都である。 ロシア帝国はかつて大英帝国とともにユーラシア大陸を二分して領土合戦を繰り返していた。そのため、ロシアにはユーラシアの北の方の史料が、イギリスには英領インドを筆頭とした南の国々の史料がよく保存されている。どんなものかと言えば、ロシア帝国時代に国威をかけて行った探検事業や戦争を通じて手にし〔たものだけではなく、革命後に個人から没収したり、第二次世界大戦でドイツから奪い取ったりし(笑)〕た敦煌、クチャ、トルキスタン、モンゴル、西夏などの、多くの文物である。

 しかし、チベット関連の史料についてはやはりイギリスの方が充実しているため、私の脳内でロシアの占める地位は低かった。しかし、最近近現代に興味をもつようになると、じょじょにロシアの重要性が分かるようになってきた。1904年、ラサにイギリス軍が迫る中、ダライラマ13世はロシアの支援を求めて北上しモンゴルのウルガ(現在のウランバートル)に到達した。そうしたらロシア帝国内のチベット仏教徒たち(カルムック人、ブリヤート人)がダライラマ13世の下におしよせ、東西のチベット仏教徒が激しく交流するようになるのである。

 今回のペテルブルグ行きの目的は、1905年にロシア地理学協会代表としてウルガに滞在していたダライラマ13世を訪問したロシアの地理学者コズロフの撮影した写真を見ることである。1907年に記されたコズロフの報告書には、ダライラマ13世は写真を拒否したので、肖像画家をつれていきその肖像画を書かせたこと、彼の宮廷のスタッフや南モンゴルから巡礼にきたスニット部盟長で郡王とその家族の写真をとった旨が記されている。

 現代の研究者はダライラマ13世を独立チベットの、ジェブツンダンパ8世(生まれはチベット人)を独立モンゴルの提唱者としてそれぞれの国のナショナリズムとともに語る傾向が強いが、この場合忘れてはならないのは、ジェブツンダンパ8世の権威はハルハにしか及ばなかったが、ダライラマ13世の権威については、ロシア・清朝在住も含む全モンゴル人、のみならず、西洋人にも及んでいたことである(本当)。コズロフがとったウルガのダライラマ13世とその下に訪れる巡礼たちの写真は当時のダライラマ13世の領域をこえた権威を示す貴重な史料なのである。

●P. K. コズロフのアパート博物館へ

 初日はペテルスブルグ大学のウスペンスキー教授の紹介で、コズロフ・アパートメント博物館(Kozlov Memorial: 住所: 191124, Санкт-Петербург, Смольный проспект д. 6, кв. 32.)において、二年前にここの館長を辞したアンドレイエフ・アレクサンダー研究員と会う。この記念館の名前が示すように、コズロフが1912年から35年までに住んでいたアパートメントをそのまま記念館にしたものである。
17796295_10207564711470042_7281892561186462558_n.jpg

 アンドレイエフ研究員によると、コズロフの収集した文書系のものはモスクワ(ただし清朝を探検した際のパスポートみたいなものは展示されていました)に、文物系はエルミタージュにうつしたので、ここにあるものは写真以外は演出で飾ったものだとのこと。

 研究員はペテルブルグやモスクワの文献館にある文書に基づいて、ロシアのチベット仏教徒について実証的な研究を行っている(これができる研究者は旧社会主義圏には少ない)、非常に尊敬できる方であった。彼と話していて、ロシアの仏教徒研究については文書館の近くにすむ彼には絶対叶わないので、この点については彼の研究を消化し、彼の視野に入っていない、清朝やモンゴルや日本関連の視点を私がつなぎあわせれば、さらに高い視点からチベット仏教世界の近代が見えるのではないかと思った。アンドレイエフはコズロフの居間にはられた写真を一つ一つ説明してくれた。それはコズロフがヘディンやドルジエフやなどの同時代人ととったものであった。

●地理学協会で異文化コミニュケーション(笑)

 翌日、コズロフが1905年にウルガでとった写真を閲覧するために、ウスペンスキー教授のつきそいのもとロシア地理学協会Russian Geographical Society)を訪問する。そこは軍の下部組織とかで閉鎖的で部屋には開室時間が書いてあるものの、午後にしか写真はださないし、全部はだせないと非常にへんなかんじ。ウスペンスキー教授と学芸員(女性)が話あっているが、ロシア語なので内容はわからない。テレパスで解釈すると、どうも私の直前に日本からきたIさんがとても愛されていて、彼に対する気を遣って私にみせたくない感じがした。
17457782_10207564713670097_7348270138603425785_n.jpg

 これって、そこにいる学芸員のゴキゲンをとらないと史料をだしてくれない、中国の田舎の档案館なんかと同じ縁故システムである(システムでないけど)。西欧諸国の文献閲覧は透明性が高い。フィンランドの国立博物館所蔵のマンネルヘイムの撮影した写真をみにいった時は、フィンランドに誰一人知り合いがいないにも関わらず、メールのやりとりだけで当日そこにいけば、申請したフィルム類が、手袋と関連書籍とともにだしてあった。学芸員さんにこちらが質問すれば答えてくれるし、必要以上に個人的なつきあいを深める必要もなかった。

 「何度も通って学芸員さんと関係を作って「じゃああなたにならみせてあげる」、という前時代的なシステムははっきりいってメイワク。そもそも史料にアクセスすることに障害があること自体がおかしい。個人の好き嫌いで史料の公開・非公開が決まったり、国策で過去の史料をみせていなかったりするのは、本末転倒。歴史学者の仕事は学芸員の機嫌を取ることや、その史料を隠蔽している国の機嫌を取ることではない。
 
 とかなんとかいう原則論をいう前に、そもそも私には人間関係の構築を行うためのロシア語力がないんだよね。しかも、ウスペンスキー教授は「今日は授業」とかいってでていくし(おい)、自力で何とかしなければならない。
17757465_10207564709589995_4496613134316071920_n.jpg

 まず「史料を申請するための書類をかけ」と言われるが、すべてロシア語なのでよめねえ。
「何でロシア語の書類しかないんだよ」と思うが、よく考えたら、日本の公文書館にくる人は日本語が読める人しかこないから日本語の書類しかないのと同じだ。そもそも私がこの語学スキルでここにいるのがおかしい。しかし何とかせねば。そこでiPHoneにダウンローどしていたキリル文字を自動読み取りして翻訳するgoogleの翻訳アプリを書類にかざしてみたら、あら不思議。内容がわかるわ。何とか書類をうめることができた。

そして「午後にしか写真みせてくれないないなら、今はひとまず目録をみせて」ととりすがって目録をみせてもらい、コピーはだめというので、ひたすらコンピューターに写す。電子データのうちだしなのだから、仲良くなった人はこれをUSBでもらえるのだろうと思うと空しいが、こちらも意地でひたすらパソコンに目録を書き写していく。

 目録のだいたいの構造をよみとり、1905年のウルガのダライラマ13世巡礼写真のフォリオの番号をみつけ、「これだけでも出して、お願い」とせつせつと訴える。
 とはいってもロシア語力がないので、まず英語で作文してgoogle翻訳でロシア語訳してそれをword にはって拡大して、悲しい顔をしてその画面を学芸員さんにおみせするのである(爆笑)。

 相手も私に何か伝えようとするがもちろんロシア語なので通じない。そこで私はみぶりでパソコンでgoogle翻訳をひらくようにいい、そこで彼女にキリル文字でうちこんでもらい、その場で英訳して、読み取る。ケータイアプリとパソコンgoogleによる新時代の異文化コミニュケーションである(笑)。

  ありがとうgoogle。あなたのおかげでわたしはロシアを生き延びることができました。
写真の中には1904年にダライラマ13世がラサを脱出する時行動をともにしていた、ダライラマの侍医やお膳係(gsol dpon)、それと巡礼にきたスニットの盟長と妻、娘たちの写真など目指す写真にはいきついた。番号がわかったので次はそれこそ語学ができてちゃんと関係を構築できる方に頼んで使用許諾を得てもらおう(寄生虫である)。

●エルミタージュ博物館とロシア民俗学博物館

 地理学協会の翌日はエルミタージュ博物館のチベット部門、その翌日はロシア国立民族学博物館(The Russian Museum of Ethnography )にいく。エルミタージュではチベット・モンゴル部門のジュリア・エリヒナ学芸員を訪問し、彼女から展示品の説明をうける。私が注目する展示品は、ダライラマ13世からニコライ2世に1913年におくられた文殊菩薩、無量寿仏、白ターラー尊である。
 1913年はダライラマ13世がチベットの自立を宣言し、ロシアはロマノフ王朝樹立300周年を迎えた記念の年であつた。
17634718_10207564714350114_6611510826022117301_n.jpg

 私はジュリア学芸員に「チベットで長寿三尊と言えば、無量寿仏、白ターラー尊、尊勝仏頂尊なのに、これはなぜ尊勝仏頂尊でなく文殊菩薩なんでしょう。文殊菩薩は普通中国皇帝のシンボルですよね」というと彼女は「さあしらん」。

 翌日、ロシア民俗学博物館に、同じく1913年にブリヤートの使節団がニコライ2世に奉献したヤマーンタカ(ヴァジュラバイラヴァ)13尊の立体マンダラをみにいく。ウスペンスキー教授によると二年前のチベット寺創建100周年の年にこの博物館で素晴らしいチベット仏教展示会が開かれ、そこには出品されていたそうな。私はこの博物館のサイトからとった立体マンダラの写真をみせて、「どこだ」と博物館にいたあらゆる人に聞いたが「ない」と言われた。展示していないならサイトにのせるな。

 17523145_10207564708349964_6972492528377360490_n.jpg


 この時、なんで13尊ヤマーンタカなんだろうと思ったが、エルミタージュを訪問した際に、ユリア・エリフィナ学芸員から拝受した『エルミタージュ藏ニコライ・リョーリヒチベット仏画のコレクション』Tibetan Paintings form the Collection of Yu.N.Roerich. を読んでいるうちに何となくわかってきた。

 本書94ページの「緑ターラー尊」の佛画の解説には、ターラー尊の上部には「最初のシャンバラ王」(rigs ldan dang po)スチャンドラが描かれている、と記されていたが、帰国後写真を拡大してみるとこれはRigs ldan dang poではなくRigs ldan dag po(< drag po 'khor lo can サンスクリット語でルドラチャクリン王)と読める。

 ルドラチャクリン王は2037年に即位する25代目のシャンバラ王で最終戦争にかって地上に仏教徒の楽園を実現するという救済者として名高い王であった。この王は文殊の化身とされるので、ダライラマ13世の奉献仏像の中に文殊菩薩があったことの説明つく。ちなみに文殊の忿怒相がヤマーンタカなので、ブリヤートの献上品にヤマーンタカ13尊マンダラがあることも説明がつく。満洲人国家である清朝が崩壊し、漢人国家の中華民国が成立すると、チベット仏教徒は漢人皇帝よりも、ブリヤートやカルムックなどのロシアのチベット仏教徒にやさしいロシア皇帝に期待をよせ、シャンバラ王にみなしていたのである。

17795988_10207564710510018_1100757133781814342_n.jpg

 次回はペテルスブルグを行く(町歩き編)です。
[ TB*0 | CO*2 ] page top
DATE: 2017/03/24(金)   CATEGORY: 未分類
虹の橋に行きかけた
火曜日の朝六時、めまいで目が覚めた。起き上がるとさらに症状はひどくなり、まっすぐ立てない。外はどしゃぶりの雨でこの気圧の変化が発症の原因かもと思う。この日、東京は全国に先駆けて平年より五日早くソメイヨシノの開花宣言があった。

 こりゃいかんととりあえず代謝をよくする漢方をのんで寝直すと、あまりにも体調が悪いので起きているのか寝ているのかもわからない意識状態となる。今の意識から言えばそれは夢であるが、その時はとてもリアルなものであった。

 夢の中で私は真ん中に広間があってその両側に小さな部屋のある大きな家にいた。夢の中の私はそこを私の家だと感じている。なぜなら、普通に廊下の先の方で愛鳥(ごろう様オカメインコ)が飛んでいるし、部屋から愛猫(茶虎)がすたすた出てきたりしているからだ。

 私は母を探していた。実は母は四半世紀前になくなっているが、夢の中の私は母は生きていると確信している。母の気配が玄関に感じられたのでいってみると、今しがた町内会の会費を払ったばかりなのか、何ヶ月分かの領収書が置いてあった。その領収書を手にとって「母は近所に出かけているのかな」と思い、その次の場面では私はいつもの布団の中にいてその手の中には領収書が握られていた。

 この時私はもう母の死んでいる世界にいて、手の中の領収書をみて「あれは夢じゃなかったんだな。」と思っていた。

 しかし、二度目に同じ布団の中で目が覚めた時にはもう手の中には何もなかった。夢の中で夢が覚めるという体験はこれが初めてだった。

 忘れないうちに家人に夢の話をし、あれは何だったんだろうと検討を行う。
 死んだ人間を死んでいないと感じていたこと、あそこにいた猫は先代の猫(当代と柄がまったく同じ)と先代の鳥(当代はオカメインコだが先代はセキセイインコ。しかし遠目でみえただけなので先代の可能性もある)であったとすれば、なくなった愛するものたちが我々のくるのをまっているというあの「虹の橋」を垣間見た可能性もあるのではないか(オノレは仏教徒だろw)。体調絶不調の私の意識はあの時、あの世に半分はいりかけていたのかも。あの時、母は気配しか感じられなかったが、面と向かって姿を見ていたら、いわゆる「お迎え」が来たことになるのか。

 翌日また不思議なことがあった。FB経由でYさんから「昨日東京女子医大にいませんでしたか。先生とすれちがったような気がするのですが」というメッセージを頂戴した。時間をきくと15:30である。当然家で伏せっていた時間である。じつは前にも「先生〜にいませんでしたか」と私が存在しえない場所での目撃談を聞いたことがある。この現象は可能性としては、

1. 他人のそら似。 
2. ドッペルゲンガー 
3. 修行の結果幻身が出現した。

 の三つが考えられる。 チベットでは高僧は衆生済度のために同時にいくつもの場所に存在することが可能であると言われ、グヒヤサマージャの法で成仏するとできあがる有名な幻身もそれである。
しかし、私は高僧でないし、グヒヤサマージャの灌頂は受けたけれど生起法はやってないので、そんな高度なワザをくりだすことはできない。なので、1. でなければ2.である。
 翌日は体調も回復し、二日経った本日はこのエントリーを書く気力が生まれた。とりあえずおきたこと、考えたことを備忘のために書き留めておく。
[ TB*0 | CO*1 ] page top
DATE: 2017/03/17(金)   CATEGORY: 未分類
『チベット牧畜民の一日』と『天空の宗教都市』
●5月27日(土)に「東京で感じる天空の聖地「チベット」」の日帰りツアーの講師をいたします。

新宿駅→ダライ・ラマ法王事務所→中村天風や大隈重信が眠り、かつダライ・ラマ法王が講演された護国寺(江戸時代の美齢な十二神将が圧巻)→真正のチベットレストラン「タシテレ」での昼食→河口慧海が住職をつとめた五百羅漢寺(羅漢さんは字圧巻)→河口慧海終焉の地に近く顕彰碑のたつ九品仏浄真寺(巨大な九体阿弥陀像で有名)→新宿駅

 参加者にはもれなく拙著『ダライ・ラマと転生』がお土産につくそうです。
詳しくはこのサイトで。

 震災六年目の3月11日、東京外語大学アジア・アフリカ研究所にドキュメンタリー映画『チベット牧畜民の一日』を見に行った。同研究所で行われていたチベット遊牧民に関する三年の研究成果を発表する企画の最終日であり、同研究所の1階展示スペースには「チベット牧畜民の仕事」というパネル展も展示されていた。
17309662_10207445273204160_5860477025367010269_n.jpg

 このドキュメンタリーを見た人々が、「チベットの牧民の男がいかに働かないかが分かる。力仕事も何もみな女性がやっている」あるいは「あまりに男が働かないので、読経しているじいさんの頭を殴りたくなった」などの感想をネットにあげけていたので、男と坊さんをどのように描いているのかに興味があった。

 見てみると、確かに男が怠け者に見える。たとえば、雨が降り出すと、女性が慌ただしく干したヤクの糞(燃料に用いる)を雨に濡れないように取り込むのに、在家密教行者のおじいさんは雨の中座り込んで「雨雲を散らす瞑想」をしている(笑)。これを見て「天下国家を論じてばかりで目の前の仕事をしない」自分の夫なり何なりを思い出して、腹を立てる日本人の女性はいるであろう。

 しかし、本当に雨雲が散らせるのなら瞑想も密教行者の立派なお仕事である(笑)。

 ハインリッヒ・ハラーは『チベットの七年』の中で「なぜ雨が呼べるのか(あるいは止めるのか)、これだけはどうしてもトリックが分からなかった」といっているので、少なくとも中共が侵入してくる以前のチベットでは在家密教行者はきちんと仕事していた。

 そもそもこの映像は、遊牧民の家事労働を記録に残すべく、研究者たちがあらかじめ提出した18のトピックに基づいて、カシャ・ムジャ監督がとったものだ。そのトピックが家事労働、料理(とくに乳製品)、家畜など衣食住などであったため、結果として女性が仕事する映像が多くなった。また、一週間(2015年夏)という限られた期間に撮影されたためその制約もある。

 私はもともとモンゴル・ゼミだったので、大学に入って最初に読んだモンゴル語の論文が乳製品の加工であった。そのため、このフィルムにでてくるヤクの乳製品の加工を見て「モンゴルと同じじゃん」と思い、かつ、春夏秋冬彼らの生活に数十年にわたりよりそい、家畜の冬越し、春の繁殖、群のコントロール法、災害、季節による牧地の移動などを時間をかけて記録しないと牧畜民の生活は完全には記録できないだろうと思った。あと、モンゴルでの牧畜の民族誌の蓄積が参考になると思う。
17265182_10207445273884177_7242396826765478792_n.jpg

 上映後、研究グループの一人一人がフィールド調査での苦労話やこぼれ話を披露し、一般の方からの質疑応答を受けた。質問者にはチベットのおかしがご褒美に配られる。最近文科省は研究成果を専門家にだけ分かる言葉で発信せず、一般に還元するようにと通達しているが、この会には多くの一般人が聞きに来ており、質問も活発になされたので、文科省もお喜びのことと思う。フィールド調査は一般向けのプレゼンがもっともやりやすい学問ジャンルである。

同じチベット学でも、世界的に評価の高いチベットの存続を可能ならしめているチベット仏教の哲学については一般向けのプレゼンは難しい。チベットの仏教哲学はきわめて精緻で複雑なので、トレーニングを積んだ人でないと分からず、それは科学や物理の先端的な研究を一般の人に分かりやすく説明しろと言われても、無理なのを想像していただければ分かりやすい。今目の前でみているような形で人々に「ああわかった」という感じを持たせることは哲学ではできないだろう。
 
 仏教学よりは少しはましだが、歴史学もこういうフィールドに比べると一般うけがしない。ここに存在しない過去が舞台だから。「17世紀にタイムスリップしてダライ・ラマ五世にあってきました」とか言いでもしない限り臨場感のある話はできない。

会場からでた一般の方からの質問はざっとこんなもんであった。
質問(男):女性ばかりが働いているけど男は何か仕事をしているのか。
答え:男と女は分業していて、かつて男は羊の皮をなめして服を作ったりしていたけど、今は既製品を着ているため、男の仕事はへった。一方、女の仕事は電化したため多少は楽になったものの、減っていないため、これはチベット社会を考える上問題になっている。
 男は現金収入を得るため出稼ぎして街でタクシー運転手とか、肉体労働をやっている家庭も多い。

質問(女)::映像中で昔は羊の衣袋をつかってチーズを保存していたというが、ヤクしか写っていなかった。いつ頃から羊を飼わなくなったのか。
答え::草のキャパが少なくてヒツジは山の向こうの友人に預けている。秋になると360頭の羊が帰ってくる。それとチベット人は最近殺生を嫌って羊をトサツしなくなったので、ヒツジは減っている。
*これは面白かった。2006年ダライラマ14世が、法話の中で殺生して手に入れた毛皮を着て見栄を張るののは恥ずかしいことだ、といったら、チベット人は「うおおおおお。法王様ごめんなさぃぃぃぃ」と自らの着ていた毛皮を焚き火にほりこんでもやし、それをみた中国政府が牧畜民がダライ・ラマの言葉に従ったのを問題視し「毛皮を着なさい」と強要したという、あの話を思い出した。チベット人はダライ・ラマの非暴力思想をまじめに遂行しだしたのは、ある意味中国政府に支配されているからという側面もある。

質問(男):山の上の生活ではゴミはどう処分しているのですか。
答え:〔決まり悪そうに。〕何でもかまどにくべてもやします。ペットボトル何かをもやしたらダイオキシンがでるとか考えないようです。中国政府の定住化プログラムで集住した遊牧民のすみかでもゴミ問題は深刻になっています。

質問(女):チベット人は宗教・言をはじめとして自分たちの文化を護ろうとしてもいろいろ自由がないのではないか。
答え:チベット人のナムタルジャさんが決まり悪そうにだまりこむ。H先生が代わりにチベット語が重視されていないこと、漢族に飲み込まれていくことはチベット人にとってもちろん大きな問題として認識されています。と答える。ナムタルじゃさんが答えられないのは、むろん青海に家族がいるからである。

質問::若い女性が朝から晩まで重労働しているが、彼女らは都会にでたがっているのではないか。
答え:若い人を集めて聞き取り調査をしたが、父親がそばにいるからか、みな月並みなことしか言わない、芸能人の名前とかだして話を引き出そうとしたが、お父さんは突然「ハイ打ち切り~」と終わりにしてしまったため、彼女らの胸の内は計り知れない。でも誇りを持って自立して生きている人に、こちらの考え方をおしつけるのは野暮だろう。

質問(女):伝統的に遊牧していたのか。過去と今では変化はあるのか。
答え: 1959年以後は中共が侵入し,人民公社を作って集団化したため、個人所有はなくなった。1984年からは個人所有が許されるようになったが、1997年に家族の人数に合わせて分配することになった。過去は移動していたが、モンゴルほど長距離の移動ではなかった。村のなわばりがきまっているので、大体2キロから10キロか。

質問:チベット人の通常の食事はツァンパや肉だと思うけど、映像にははるさめとか、餃子がでてきた。後者は特別なの?
答え:冬は肉中心の食事になる。昔は小麦は手に入らず麺は作らなかった。春雨とか餃子は昔も作っていたけど最近はとくに流行っている。

質問::テントの中に機材があったがテレビ映るのか?チベット語のテレビ局はいくつあるのか?中国語の番組を子供が見たら漢化しないか?
答え:衛星の電波が入るので、西寧と同じ番組が見られる。しかし、内容はcctvをアムド語に直訳したりした番組である。子供は中国語のアニメを見るので、みな中国語できるようになった。学校は寄宿舎。チベット語が軽視されていて、チベット人は問題視している。
チベット人は中国人に飲み込まれていく危機感を覚えている。生業に基づく文化を失うのではないかとおそれている。
17265182_10207445273884177_7242396826765478792_n.jpg

最後にナムタルジャさんの博士獲得と震災からの復興を祈念してルンタがまかれた。ナムタルジャさんは元牧童であり、牧畜民初めての「博士」とのことであった。青海省や内蒙古のモンゴル人の元牧畜民の方はずっと昔に留学してみな博士号をとっているので、同じ牧畜民でもモンゴル人の方がチベット人より外界との接触がかなり早い。

帰宅して、その日の七時半から『天空の宗教都市』(BSプレミアム)を見た。これは、ラルン・ガロという東チベットのニンマ派の僧院に関するドキュメンタリーである。、ここ数十年で漢人の信者も含めて急速に大きくなり、当局がその拡大を阻止しようと去年僧坊の破壊を行った(詳しくは川田進先生の『東チベットの宗教空間』をご覧あれ)。かつてNHKの看板番組にシルクロード・シリーズというものがあり、流せば高視聴率がとれ、視聴者は仏教がインドから平城京にいたった古代のロマンに酔いしれた。そこにはこれらの地域の「現在」が描かれることはなかった。このシリーズは中国政府の検閲下で撮影され、編集されていたからである。

 それと比較すると今回の映像は可能な限りギリギリのところでチベット人の言葉と信仰を護る戦い、すなわち「現実」を描いていた。お坊さんの僧坊にガンジーやキング牧師やオバマ大統領のポスターがはってあって、ああ、間違いなくダライ・ラマのポスターもうつっていないどこかにあるな、と分かったり、彼らがチベットの子供たちの漢化を少しでも防ぐためにチベット語の野外講習をやっていること、彼らの肉も食べず、もちろん異性交際も行わないまじめな生活についてもきちんと伝えていた。中国政府が僧坊を破壊した件については「僧侶たちの姿が僧院から消えた」とナレーションがでて「嵐が過ぎ去るのを待て」とみながささやきあっていたなどと間接的にだけど、彼らが理不尽な目にあっていることを伝えていた。
 がんばったと思うよ、NHK。誰でも見られる地上波でも再放送してほしい。
 私の3月11日はラルン・ガロの僧院を拝んで終わった。
[ TB*0 | CO*2 ] page top
DATE: 2017/03/11(土)   CATEGORY: 未分類
国際会議のホストをやってみて
長く生きているといろいろな体験をする。小さいながらも国際会議のホスト役をし、ここ二三日はその後片付けとその間渋滞していた諸事をこなして、今、ようやく落ち着いた。
 
 開催を引き受けた一年前から、まず、お金の調達。助成金の申請を各所に行い、それから準備。会議室は早稲田のどこにするか、ホテルとレストランはどこにして、その際の移動をどうするか、これらを足で探して、大体目星がついたら実際そのレストランでランチたべるなどの下調べをして、「まあいっか」となったものを予約した。

 開催日が近づくと非常識な参加者の宿泊や夕食のドタキャンなどの対応にあたり、それと平行して自分の発表レジュメを英作文し、当日の進行表、連絡先を周囲に共有してもらい、いよいよはじまると、進行に目配りしで、もうほとほと疲れた。こんな日々が続いたら研究なんてとてもできん。脳みそを使う部分が全然違う。
1310461003_01.jpg
↑演劇博物館

 一応、参加者からは「素晴らしいオーガナイズだった」というメールがとどいているが、西洋にもお世辞や、招待された相手を面罵するのは失礼とする文化はあるので、真意については不明である。

 東洋学はじつは日本が一番進んでいる。今回、この会議をもちかけられた時、相手が議論を中心とした構成にしようとしていたので、私は「待て。欧米よりも日本の東洋学の方が圧倒的に進んでいるのだから、日本の発表者の発表内容を聞いて、質疑応答くらいにした方がいい。それに日本人はそもそも議論できるほどの英語力はない」と主張したのに、何ていったと思います?

「西洋人は20分以上人の話を座って聞けません。議論はハズセマセーン」

 「東洋と西洋は決してわかり合えない」と私はキプリングの箴言をつぶやいていた。
で、今回学会が終わってみてやっぱり私の言った通りだった。

 満洲語、モンゴル語、漢語がよめる日本人の発表ははばひろい領域の史料に基づき事実をつみあげ、実証的な研究を行うので、議論の余地のないものとなり、欧米人は実質質問しかできない。一方、欧米人の発表はそれぞれのケースによって異なる問題を自分のできる言語から概論的な祖述をするだけなので、つっこみどころは満載。

 それぞれのケースによって異なることを概説するから、日本人から「Evidence(証拠)は」とつっこまれたり、反証をだされると、答えられない。そこで結局欧米人同士が証拠不十分のテーマについて答えの出ない議論をするだけで、日本人は死んだ目をして聞くこととなった。

 そもそも、昔も今も東アジア研究は日本が一番なのじゃ。日本語はウラルアルタイ語だから、満洲語もモンゴル語もトルコ語も容易に習得できるし、漢字は書き文字に使うし、そのうえ仏教・儒教が伝統宗教だから、キリスト教をバックグラウンドとしている人々よりも東アジアの文化の諸側面についてははるかに理解がはやい。

 かつ、東アジアでもっとも早く近代化し、中共が破壊する前の文化遺産の調査・研究の蓄積もあり、かつ、戦後も民主化して学問の上でも政治の制約がないことから、国の政策やナショナリズムによって歴史研究がゆがむことはなかった(cf. 個人の能力によるゆがみはもちろんある)。結果として、日本で現代フランス思想を日本語に翻訳・紹介することで教授の地位を得る人がいるように、外国では日本の東洋学の研究を基礎に(ある時はパクって)自分の地位を築く人は結構多い。

 20世紀の70年代までは中国には西側欧米人の入国が難しかったので、東洋を研究する人はもっぱら日本に来て学び、日本語を理解できる西洋人は多かった。しかし、最近は直接中国に留学して東洋学を学ぶため、日本語をできる人は少なくなった。彼らは中国の学者を通じて日本人の研究のだしがらを味わい、それに基づいてざっぱな図式化を行う(やらないまじめな人もいる)。

entrance.jpg
↑會津八一博物館

 このような現状を見ていると、世界の東洋学の発展のためには日本人が自分たちの業績を英語で発信することが必要であることは自明だが、いかんせん私を含めて日本人の大半には英語力がない。

 今回私が『会議英語』を片手に作文していたら、それを手にとった欧米人の研究者が、笑いながら「これはクラッシックですね。今時こんなもってまわった言い方しませんよ」と言われ、日本人同士はお互いのしゃべるヘタクソな英語を自虐で笑い合い、實に空しかった。

 それを象徴するエピソードがこれである。
 私は議論が盛りあがらないことを念頭におき、会議の合間に、大学内にある博物館の参観や図書館での関係古文書の閲覧を日程にいれた。具体的には会津八一博物館で一月三十一日までとされていたチベットの仏様の展示を無理矢理この時期まで置いてもらうこととし、図書館では大隈重信伯に寺本婉雅がおくった書簡の現物を閲覧するのである。ところが、図書館にいく時間が多少早まったので、一行を演劇博物館(著名なシェークスピア研究家坪内逍遙の時代からたつシェークスピア劇場つきの博物館である)で待っててもらって図書館に準備ができているか確認しに走った。確認が終わって演劇博物館に戻ると、みなが爆笑している。

 見ると「日本の民俗芸能」(Folk Art)を展示する部屋の説明プレートが、日本の「日本のフォーク芸能」(Fork Art)となっていた。

 つまり、図らずも日本人の英語力の低さを大学をあげて証明することとなってしまったのである。

 日本の東洋学の学威を海外に示すためには、まず英語での発信が必要。しかし、その英語力がないという悲しい現実がそこにはあった。
[ TB*0 | CO*0 ] page top
DATE: 2017/02/22(水)   CATEGORY: 未分類
エリオット・スパーリングの死
 おそらくは1月27日に著名なチベット史家のエリオット・スパーリング氏がニューヨークで急逝した。
 なぜ「おそらく」なのかというと、亡くなった際、誰も近くにいなかったからだ。
 私が彼の死を最初に知ったのは、2月1日の夜。Aさんが彼の死をつげるどなたかの記事をリツイートした時だった。しかし、その後、その元記事が削除されていたので、彼はバリバリのフリーチベットの活動家だったこともあり、最初は、中国が嫌がらせでもしたのか、〔トランプ大統領のいうところの〕フェイクニュースだったのかと思った。

 しかし、同じ2月1日の夜、アメリカ在住の民主活動家、曹雅学(Yaxue Cao)が、「27日からスパーリング氏と電話もメールも通じなくなり、エネルギッシュに多くの人とやりとりしていた彼からは想像もつかないことであったことから、安否確認をすると、20時間前にイリハム・トフティ(民族大学の教授で「国家分裂罪」で中国で服役中。その解放にエリオットが活動していた)の娘から涙声の電話があり、スパーリングの死を確認した」という旨の投稿があった。

 ネットでは、彼の死をこのような形(公式発表のない状態)で語り合うのはよくない。という人もあり、この記事もすぐに削除されたが、しばらくしてルービン美術館のKarl Debreczenyが、公式にその死を告げるに至り、拡散した。
 この時、スパーリングの名前でツイッターを検索すると、難民チベット社会よりも(彼らは遅れて弔意を表明した)、ウイグル・中国の民主活動家の弔辞がまず並んだことから、はからずもスパーリング氏のチベット史学者にとどまらない広範囲の活動がしのばれた。

 彼を偲ぶ会は3月11日のチベット蜂起記念日ににニューヨークで行われる。あの3月11日に。
C5Kio4RXUAA9eke.jpg

 チベット学者たちは、チベット文化を抑圧し消滅に向かわせている中国政府に等しく不快感をもっている。しかし、それをどのような形で示すかは人によって様々なかたちをとる。

 たとえば、人類学者の場合は、中国を怒らせて本土で現地調査ができなくなれば研究がなりたたくなるので、自ずと発言にブレーキをかける。本土に入れなくても痛くもかゆくもない仏教哲学の研究者は,チベット仏教の伝統を支えることが、長い目でみればチベットを存続させることになると考え、政治については「世俗のこと」として関わらない人も多い。

 しかし、歴史学者であったスパーリングは実にはっきりとチベットへの支援と中国への抗議を表に出した。
 非暴力で自由をかちえようとしているチベット人にとって、時には暴力的な手段で抵抗の意志を訴える人のでるウイグルとの共闘は、慎重になる人も多い。しかし、スパーリングは迷わずウイグル人の研究者の釈放運動に飛び込んだ。天安門事件以後海外に逃れた中国人の民主活動家とも親しく交わっていた。

 また、現在ダライ・ラマ法王とチベット亡命政権は「中道のアプローチ」、すなわち植民地でも独立国でもない、完全自治の中道をめざしているが、スパーリンク氏は「独立」の主張を続けるべきだとの立場をとっていた。

 彼はものいう歴史学者であった。

 スパーリングが、チベットという一つの民族が消滅することを座視せず全力で立ち向かっていった一つの理由は、彼のユダヤ人としての出自に求められよう。
C45tsE1UYAMKLbo.jpg

 北京在住のチベット人作家ウーセル(唯色)さんは、スパーリングがインディアナ大学を定年でやめる際の記念論集(2014年)に次のような言葉を寄せている。

 エリオットは厚い英語の本を抱えていた。それはスターリンの粛正でなくなったユダヤ系ロシアの詩人Osip Mandelstam(1891–1938)の妻の回想録であった。私がOsip Mandelstamの詩や散文に親しんでいたことを、スパーリングは非常に喜び、後に作者に悲劇をもたらすことになる詩を二人で一緒によんだ。

 わたしたちは足の下に祖国を感じないと生きていけない。
 10歩離れればわたしたちの言葉は聞き取れない
  いかなる会話も、いかに短かろうと、
  クレムリンの山男の方へひきずられていく


 ウーセルさんはチベット人であるが、漢人の中で教育されたため、チベット語ではなく漢語で表現する作家となった。しかし、スパーリングはウーセルさんには決して漢語を用いず、チベット語で話し、彼女のチベット語会話力が衰えないようにしていたという。

 抑圧的な中国共産党のチベット政策はいわずもがな、16億人の漢人の海の中で600万人のチベット人の文化は同化の圧力にさらされている。スパーリングがこのような人たちのために戦うエネルギーを持ち続けられたのは、やはり第二次世界大戦中に民族ごと根絶やしにされかけたユダヤ人としての民族の記憶があるからかもしれない。

 元SFT (Student for Free Tibet)の代表テンジン・ドルジェの弔辞はスパーリングのなくなる直前の様子を伝えてくれる。

エリオット・スパーリングを忍んで 2017年2月8日

 エリオット・スパーリングの死よりも大きな悲劇を思い描くことはできない。まだ66才だった。生命力、健康、目的意識をつねに発散しており、死とは対極のイメージの人だった。2014年にインディアナ大学での教授生活から引退し、生まれ育ったニューヨークに戻り、ジャクソン・ハイツにアパートを買った。彼の家は窓以外すべての壁が本棚で覆われていた。アパートのふりをした図書館みたいなところに暮らしての忙しい隠居生活を、彼は楽しみにしていた。

 エリオットはチベット・中国関係史の世界的な権威であり、33才でマッカーサー天才助成金を受け、それから30年かけてチベット学を定義した作品群を生み出した。元朝、明朝、清朝とチベットとの関係について論文を書くことを通じて、彼は漢文とチベット語史料の双方をもちいて二つの国の関係を特徴づける独立性と分離について光をあてた。彼が現れるまでは西洋の知識人は、チベット語史料にアクセス出来なかったため、中国人の目を通じてチベットを見ていた。中国語と同様チベット語も流ちょうなエリオットは、古い時代の中華思想の物語を解放し、文字通り一変させたのであった。彼の論文はこの分野にとって非常に重要なものとなり、中国・チベット関係について一ページでも何か書こうとする学者は、その業績を参照しないことはなかった。彼はチベット・中国関係史のヘーゲルだった。
ElliotSperling_20150223.jpg

 当然のことながら、私たちはこの偉大なる学者がチベット世界の第二の首都、ジャクソン・ハイツに居を構えてくれたことに非常に感謝していた。中国領事館へのデモで、チベット・ハウスでの企画展のオープニングで、リトル・チベット・レストランにおける詩の夕べで、時には私のアパートでの夕食の席で彼と会っては心が浮き立ったものである。いつも彼はパーティの知的な核として人気者だった。我々は芸術から政治、言語学にいたるまでのトピックについて彼に質問を浴びせかけた。彼の教養は歴史に止まらなかったからである。彼は底なしに気前がよく雄弁で、もっとも好奇心をかき立て、洞察に満ち、徹底的な答えを我々に与えてくれた。彼との会話は本質的にゼミであった。クイーンズ地区に住む我々チベット人の活動家や芸術家の小さなサークルの中で、エリオットは即座に第二の教授人生を送り始めた。それは大学という枠にははまらない生涯教授枠であった。我々は彼をそう簡単には引退させようとしなかった。

 先週私はアジアでの旅をおえ、ニューヨークに戻った。私は彼と会うのを楽しみにしていた。そう、彼のお気に入りのレストランだったリトル・チベットとかでばったり出会うのを。そこは彼の家から歩いて行ける距離にあった(実はエリオットにとって全ては徒歩圏内だった。大概は徒歩でいった。時にはマンハッタンですら)。彼が昨秋訪問教授としてウィーンに行く前には、独特のせっかちな感じで、「会合して戦略を話し合おう。我々は孔子学院に対する戦いを強化する必要がある」と言っていた。

 彼は中国の孔子学院を非常に懸念していた。孔子学院は、文化を保護するという装いの下に我々の大学に侵入し、チベット、台湾、天安門について議論することを封じる静かなキャンペーンを行っていた。エリオットはStudent for Tibetの代表ペマヨーコと孔子学院反対のスタッフとともに座り、アイディアを出し合った。

 彼のアカデミックな地位からいえば彼は象牙の塔にいるのが自然であったが、彼は人々との真の連帯者となり、ゆるぎなくチベットの自由を求め続けることを選択した。エリオットは我々と活動家の塹壕に入り、街頭やデモに姿を見せ、つねにより大きく大胆にチベット・サポートを行うように励まし続けた。ブロンクス訛りのチベット語で、彼は我々に「チベットの歴史をもっとまじめに学びさえすれば、チベットが再び自由になることを疑うことはないだろう」と告げた。

 北京政府を恐れを知らずに鋭く批判した。中国入国を禁じられる恐れがありながらも、エリオットは言葉を飲み込むことも、筆を曲げることもしなかった。彼が北京で教鞭を執ったときですら、多くの優秀な学者を去勢してきた自主規制の罠におちることはなかった。北京政府のチベットにおける残酷な統治に反対する一方、彼はダラムサラにあるチベット亡命政府の過度に融和的な態度にも批判的であった。チベットの指導者に対する彼の挑発的な言辞は我々を居心地悪くさせたが、彼はチベットについて本当に心配している教師として、まさに不快な領域におしやることによって我々を目覚めさせ教育するために、インパクトを求めていたのである。
 
 近年、エリオットは終身刑を受けたウイグル人知識人の友人、イリハム・トフティのケースに関わっていた。トフティがアムネスティの「良心の囚人」に選ばれること、サハロフ賞をはじめとするさまざまな賞にノミネートされるよう助けることに中心的な役割を果たした。トフティの娘、 Jewherを庇護してその福利厚生と教育を支援した。 Jewherの言葉を借りると、エリオットは彼女の「叔父さん」のようだった。彼がイリハム・トフティや Jewherに対してみせた愛と寛大さはエリオットが全ての人に対してみせたものであった。彼は確かに学者としての足跡を残したが、彼の巨大な知性は教師としての無限の優しさと友人としての献身にマッチしていた。彼は人生を他人を助けることに捧げた真に利他的な人間であった。

 エリオットの死は我々の心に大きな空洞をあけ、チベット学の世界にも亀裂を残した。友人の一人Christophe Besuchetはいみじくもこういった。「大きな図書館が倒壊したみたいだ。」そうであっても、エリオットはすでにかなりなことを成し遂げていたことを記憶する価値がある。もし仏教的な見方をすれば、休憩をとる時がきたのだ。66年の人生の中で、エリオットは、たくさんの生を生きた。タクシーの運転手、ヒッピー、学者、導師、活動家、叔父さん、父親、どの顔も他の人より、生産的で意義深いものであった。彼はその精神を我々の中に深く刻みこんでいった。ある意味では彼はまだ生きている。一つの図書館は焼け落ちたが、彼の言葉がいまなお息づいているところに何千もの図書館があるのだ。


 私も彼と同じ歴史学者なのでこの弔辞に見る彼の生き方のいくつかは、非常に共感できるものであった。
 彼が研究をはじめた時、「西洋の知識人はみな中国人の目でチベットをみていた」のと同じように、私は中国により近い日本で、マルクス史観が全盛の時代に、漢人的な世界観を当たり前と思う環境の中で研究を始めた。世の中は、中国が宣伝するとおり「チベットは中国の一部」という思考が浸透しており、私も大学に入って専門の研究をするまでは、チベットを中国史の一部くらいにしか考えていなかった。

 しかし、チベット語史料が読めるようになると、そこには漢文史料からイメージされるものとはまったく異なる景観が見えてくる。チベットは中国の一部どころか、その仏教文化は、モンゴル人・満洲人が中国の皇帝をつとめていた時代、皇室の宗教として非常に尊ばれ勢力を有していた。
 今でこそ、モンゴル語・満洲語を用いての研究は当たり前になったが、漢文史料に依拠する研究者の多かった当時の東洋史の学界の中ではなかなか孤独な日々であった。

 日本のリベラルは、歴史的に日本政府やアメリカ政府を仮想敵とし、アジアの社会主義国を潜在的同盟者と考えることから、メディアもつい最近までチベットの人権問題をとりあげることはなかったこの状況は2008年以後ずいぶんよくなった)。また、マルクス史観は宗教を蛇蝎のごとく嫌うので、ダライ・ラマがかつて歴史的に有してきたパワーはなかなか日本人に理解されることはなかった。なので長いこと私の目標は、大衆の意識を変えるのは無理でも、せめてアカデミックな領域にいる人にだけでも事実を伝えようと、論文を書き続けてきた。私が専門書でも一般書でも人より生産的であるのは、英語がヘタクソでもなぜか英語論文を書いてきたのは、その使命感からきたものだ(。

 私がエリオットとはじめて会ったのは20代後半で参加した国際学会の席であった。彼は当時から薄毛で、早口のニューョーク英語は私には理解できなかった。それからも国際学会の席で何度か直接会い、また間接的にはブログや論文を書くときに彼の著作を参照したりなどして、いつもその名は身近にあった。

 2008年の北京オリンピックの年の3月にチベット人が蜂起した時は、いちはやく音頭をとって、中国政府に弾圧を辞めろとの声明を出しチベット学者の署名を集めた。2014年にウランバートルで開かれた国際チベット学会では、チベット・モンゴル条約締結100周年のパネルを統括していた。チベット「独立」を埋もれさせたくないという彼の気合いはバリバリ伝わってきた。
 自由になったチベットを見ることなく亡くなった彼の死はただただ悲しいものだ。

 最後に、2008年の声明を出した際、彼から受け取ったメールを記念キャプチャー。こういう短い文で多くの人とやりとりしていたのだ。

emailSperlling.jpg
[ TB*0 | CO*0 ] page top
Copyright © 白雪姫と七人の小坊主達. all rights reserved. ページの先頭へ