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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2018/09/05(水)   CATEGORY: 未分類
淡路島でゼミ合宿
ゼミ生に予定を聞いたところ、参加人数が一番多い日が九月の二日と三日であり、その時ちょうど淡路島へ出張予定だったので最初二日をゼミ合宿にして、そのあと私だけのこって仕事(シンポジウムの打ち合わせ)することに決めた。一石二鳥である。

 淡路島は地理歴史専修の学生にとって教材の宝庫。

 阪神淡路大震災の震源地には野島断層という自然地理の教材があるし、震災体験もできる。また、私のご先祖岡田鴨里の生家が淡路市の予算不足から廃墟となっているのは、地方自治体の文化財保護の問題点を知る教材となる(爆笑)。また、岡田鴨里のお墓をまもってくださっている栄福寺は現在廻り弁天が滞在中で民俗学的に面白いし、同寺近くのおのころ神社や生家近くの伊弉諾神宮は古事記の神話の舞台であるから、国文学? にも親しめる。さらに、洲本の益習館や高田屋嘉兵衛顕彰館では幕末の歴史を学ぶことができる。
 とどめが、洲本市の中心部にそびえ立つイオンが地元商店街を枯らしていくありさまは人文地理のテキストブックな教材である。
 
 まさに、地理・歴史専修のための島。

 私はいつも高速バスで淡路島にいくが、今回は移動があるので明石海峡大橋の目の前にある舞子駅でレンタカーを借りて橋を渡る計画であったが駅近くにレンタカー会社がない。後で聞くと、淡路島にレンタカーでいく人は垂水からしか高速に上がれないので、三宮か垂水で借りるとのこと。センセ免許ないからそういうのわかんなかった。すまん。

橋をわたって最初の目的地は古事記でイザナギ・イザナミ二神によって最初に生み出されたおのころ島との噂のある絵島と岩屋神社である。
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で益習の集いの事務局のTさんがお迎えに来て下さっていて、以後ガイドをしてくださった。ありがとうございます。
 岩屋神社の宮司さんと渡哲也は同級生だということで、境内には渡哲也が奉納した石灯籠がある。
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 Tさんは道々車をおりて断層を示してくださり、北淡震災記念公園につくと、「せっかくだから上の駐車場にとめましょう」と導くとそこには、8/27日にこの地を通過した台風20号によって倒れた全長60mの風車がころがっていた。
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 Tさん「今しかみられない光景です」
 そりゃそうだ。

 当時のままに保存されている野島断層は迫力があり、これまた当時のままの住宅の中でTさんから震災体験を伺う。Tさんの職場は震災で焼け野原になった長田区であったので、体験も写真も悲惨であった。

 お昼はこの震災記念公園のレストランでいただく。

ゼミ生「先生、この旅のコンセプトって何なんですか? 」

私「ブラタモリ?」

ゼミ生「・・・・・」

このあと、枯木神社、洲本の益習庭園とまわり、すべりこみで、16:15分に五色待の菜の花ホール(高田屋嘉兵衛顕彰館)にいく。ここから益習の集いの会長さんと会員さん三名も合流してきた。ブラタモリ度がます。サングラスかけようかしら。

 館長さんはご先祖が記した高田屋嘉兵衛の最古の伝のデータをディスクにいれてくださっていた。

館長さん「ブログを拝見してどんな学生さんがくるか楽しみにしていました。」
「〔過去はともかく〕今のゼミ生はみな普通です。」

館長さん「I先生がお見えになるというので、いろいろ勉強しました。とにかくインコ愛を感じました。Youtubeもブログもみました。ワグナーが仏教を西洋に伝えたとおっしゃっていましたが(正確には仏教趣味があった)、私はフランス文学なのでダダイズムってならったんですよ。」と話はつきず、閉館後もしばらくお話を聞かせていただいたため、冷房がきれて蒸し暑くなっていく。ホールの外にでたらもう日が落ちてずっと涼しくなっていた。

 夜は高田屋嘉兵衛顕彰館に隣接する宿泊施設のテラスでバーベキュー。テラスは西向きなので夕焼けがとても美しい。淡路牛が柔らかくて美味しいので食べているうちに20分くらいたったところで、猛烈な腹痛に襲われる。部屋にもどって寝込みつつぼんやりとNHKの国松長官狙撃事件の番組をみながら、「両親が胆石だから自分も胆石かも」、と不安になってくる。10時くらいにはかなり腹痛はおさまってきたが、しばらく絶食した方がよさそう。

 翌日、12時間休んでかなりよくなってきたので、朝ご飯はヨーグルトと茶碗蒸しだけいただく。益習の集いの会長先生に電話をすると、「台風21号が明日上陸するので近畿の交通網はすべてとまる。淡路島の真上をとおるので明石海峡大橋も閉鎖になるから、早く帰った方がいい」といわれ学生と一緒に帰京を決定。

 それから、ご先祖岡田鴨里のお墓をまもってくださっている栄福寺にいく。O住職は本堂で廻り弁天や平安仏の説明をしてくださり、そのあと、ただお参りして帰ろうと思っていたのに墓前廻向をしてくださるという。
 墓前廻向には焼香セットとそれらをおく木の台が必要なので、二人の学生が手分けしてそれをもち、境内をでてお墓のある向かいの山の上に向かう。
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 並んでお寺の石段をおりながら、ふと「ご先祖のお墓参りにゼミ生をつれていくのは公私混同ではないか? 」という疑問が頭をかすめたが、ご先祖、賴山陽の高弟で歴史上の人だし、瀬戸内海の両墓制の説明もできるから授業だということにする。
 後ろ暗いのでジョークをとばす。

私「ちょっとサマーウォーズみたいじゃない? 」

ゼミ生「・・・・・」

笑ってくれないと気まずい。

 それから洲本城に向かうが、カーナビに電話番号をいれると、そのような施設はありませんと言われる。よくみるとこの電話番号、洲本観光案内所の電話番号である。ここは高速バスの待合室の一角にある無人のカウンターなので確かに施設でも洲本城でもない。

 そこでパンフレットにある洲本城の住所をカーナビにいれるが、ナビが指し示す方向にいくと、天守閣はどんどん遠ざかり農村部に入っていく。

私「洲本城のたつ三熊山って熊の字のつく三つの山ってことでこの住所たんに三つの山のまわりを回っているだけじゃない?」

もちろん道は山を一周まわって海際で行き止まりになる。山の住所をカーナビにいれてはいけない。
洲本城からは町が一望できる。あまりにも丸見えなので江戸時代は一般市民がここにあがることは禁止されていた。天気がものすごくよく海は青く、空は沖縄の観光案内写真のように限りなく青い。超大型の台風が明日向かってくるとはとても思えない。まさに嵐の前の静けさ。
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 このあと、御食国という観光レストランで遅いお昼を食べ、最期の訪問地伊弉諾神宮に向かう。ここは2016年に日本遺産に指定されて淡路島の遺跡の中でももっとも観光客を集めていて、兵庫県では姫路城につぐ規模だという。

  このあと高速にのって舞子に戻り、新大阪を経由してそれぞれのぞみや光にのって帰郷した。駅の掲示板では近畿のJR各線は台風21号の接近する明日は運転を見合わせ、のぞみもひかりも間引き運転をすることが伝えられている。多くの人は私と同じく次の日の仕事を捨てて帰路についたと思われ、つかれきった人々でうまったのぞみは引き上げ列車のようであった。

 淡路島があまりにも美しく晴れ渡っていたので、本当にここまでやる必要があるのかとどこかで思っていたが、翌日のニュースは事前の予想よりも遙かに大きな被害を伝えていた。関空は水没するわ京都駅のガラス天井はぶちわれるわ、神戸で車が燃えるわ、大阪の民家の屋根は飛びまくるわ、停電しまくるわ、近畿の大都市に50年ぶりの大風がふきぬけていったのであった。

追伸: ご先祖の生家は台風21号の風をうけてなくなったかと懸念されていましたが、まだあります。
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DATE: 2018/08/18(土)   CATEGORY: 未分類
ガワン先生の転生はむっちゃ可愛い(ギュメ前編)
8月18日、清風学園の校長平岡宏一先生からお電話があり、今年のギュメ詣で(付ガンデン大僧院)のお話を伺った。

 残念なことに二つの訃報がとびこんできた。ギュメの事務長のニマさん、ガワン先生のお兄さんであるプー・ツェリンがなくなっていたのだ。

 ニマさんは平岡センセ一行がバンガロールに到着すると空港まで迎えにきてくださる方で、僧院長・副僧院長は三年ごとに替わっても事務長は同じなので、ギュメの顔のような方であった(写真 昨年のニマさん)。
ニマさん

 私がギュメの老僧をインタビューしたいと言えば、アレンジしてくださるし、「ドルジエフの1905年の書簡を筆記体から楷書になおして~」とお願いしたら即座になおしてくださるし、非常にお世話になっていた方なだけに喪失感がハンパない。僧院のためにがんばったからきっと来世がいいと思う。

 また、プーツェリンの死も万感胸に迫るものがある。この方の怒濤の人生は『ダライ・ラマと転生』(扶桑社新書)に書いたので覚えていらっしゃる方もいると思うが、2009年になくなったガワン先生は死の間際までこのお兄さんの行く末をとても気にしていて、遺言でも自分が死んだ後、兄を僧院から追い出さないで、ちゃんと世話して欲しいと弟子に託している。

 プーツェリンももとはガワン先生と同じくガンデン大僧院の僧侶であったが、1959年、銃を取って戦ってしまったため僧侶の資格を失い、70年代に兄弟が再会した後も、バラバラに暮らさざるをえなかった。ガワン先生がギュメの副館長に出世された後にやっと付き人として一緒に住みはじめたが、ガワン先生はガンでまもなく逝ってしまった(写真 プーツェリン)。
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 ガワン先生が臨終間際に「生まれ変わる」決意を最初に告げたのも、兄プーツェリンであった。転生の可能性があると、その亡くなった僧の財産は保全され、先代の関係人員も解散を免れる。ガワン先生が生まれ変わりを決意したのは、老いた兄が自分の死後に僧院から追い出されるのを防ぐ意味もあったと思われる。

 四年前、ガワン先生の生まれ変わり(ヤンシー)がガンデンに迎えられると、ヤンシーは、ガワン先生の兄であるプー・ツェリン、弟子であるチューロ・リンポチェたちに育てられることとなり、みな目の中に入れても痛くないくらいかわいがっていた。

 宏一先生から聞いたプーツェリンの最後は印象深いものだった。

 ガワン先生の僧坊の仏壇の部屋の鍵はプー・ツェリンが管理しており、年寄りなので朝一番におきて、仏壇にお灯明をあげ、閼伽水をお供えする仕事をしていた。

 その朝、プーツェリンは「ものすごく悪い夢を見た。私は今日行くことになるだろう」といったのだが、みな本気にしなかったところ、ヤンシー(生まれ変わり)のお世話係のヨンジン(先生)が、ヤンシーの髪の毛を刈りにいっている間に静かになくなっていた。机の上を見ると彼が肌身離さずもっていたガワン先生の部屋の鍵が置かれていたという。

 あまりにきれいに逝ったので、みなは「ガワン先生はお兄さんのことを心配していたから、上手にあの世にいくように祈願していたんだろう」と言い合った。

宏一センセ「チューロ・リンポチェはイタリアに派遣されていてプー・ツェリンの死に際には会えなかったんです。」
 私「プー・ツェリンはおいくつになっていました? 」
宏一センセ「うちのオヤジと同じですから数えで90です」

 大往生である。
 
 悲しい話はここまでにして、明るい話。次期ギュメの僧院長であるラマウムゼの地位に、ガワン先生の一番弟子である通称、ナンパサンゲーパがついた。ナンパ(仏教)サンゲーパ(仏)って、仇名からして勉強できそう。ちなみに本名は聞き忘れた。

 僧院長は去年私がお伺いした時にラマウムゼだったロサン・オンドゥー(blo bzang dbang 'dus)。簡単に履歴を述べると、チベットではパリが故郷で、ダライラマが亡命した1959年にうまれ、生後一ヶ月でチベットを離れ、母は亡命途上のブータンで死んだ。父と父方の祖母とイントに亡命し、バイラクッペの難民居留地に住んでいた。7歳の時に在家のまま沙弥(見習い僧)になり、やがてバイラクッペにセラ大僧院が再建されたので10才でセラ大僧院(再建)のチェ学堂、ダティ地域寮(bra ti khangs mtshan)に入門した。1991年に仏教博士(ゲシェ)号をえて、ギュメには92年に入門し、2000年にゲクになり、2016年にゲン・ロサン先生の急逝を受けて、ラマウムゼ(ギュメ副院長)に就任、同年ギュメ僧院長へと昇格した。

ちなみに、昨年私の愛鳥ごろう様の認定をお願いした方がこの方である。

 さて今回の宏一先生のツアーはガンデン大僧院において成長したヤンシーに会い、日本にもなんどもきたチューロ・リンポチェから観音菩薩の灌頂を授かる予定も入っていた。

 宏一先生「ヤンシーがむっちゃかわいいんですよ。私らね、一泊して四回ごはんを一緒に食べたんですけど、ヤンシーがこっちをみてチューロ・リンポチェに耳打ちするから、何を言っているのか聞いてみたら『宏一はおかわりをしないのか』と言ったというので、おかわりしちゃいましたよ。でね、ヤンシーが野菜を一生懸命切っているから、『野菜は好きなの?』と聞いたら『だいっきらいじゃあ~』と叫ぶんですよ。可愛いでしょ。可愛いうちに見にい来ましょうよ

 育ったらかわいくなくなるのが前提の発言である。

引用

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妃女さん「ヤンシー、野菜が嫌いなところと、ゆで卵がお好きなところが、ガワン先生そっくりなんですよ。可愛いんですけど、リンポチェなので敬意を持って私は触れないようにしました(戒律で女性は僧侶に触れてはならない)」

そして、ヤンシーは来年からいよいよ論理学を学び始めるとのこと。先代のように勉強ができ僧院をひっぱっていける大人に育って欲しい。また行ってみたい気がしないでもないが、宏一先生の率いるツァーはお盆の短い期間に結構距離のあるガンデンとギュメの両方にいき、灌頂五回に法話二回とか殺人的な強行軍なので、軽々に行く〜といえないマニアでない私。

 チューロ・リンポチェは法話で「生きて行くためには世俗の仕事もしなければならなだろう。しかし、それだけで終わってはならない。仏教を実践しなさい」といっていたそう(写真で一番左の手を上げているのがチューロリンポチェ。ヤンシーの後ろのお坊さんがヨンジン)。
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そして今回、多くの高僧の口の端にあがったのがホウキの喩え。宏一先生によるとダライラマの法話にでてきたからみながこの喩えを口にするのではないかという。
 箒のほさきは一本では汚れを除くことができないが、いくつも集まるとはき出すことができる。
 これは、自分の事ばかり考えていると何もできないが、人のことを考えると大きなことができる。 あるいは、一人の祈りの力は小さいが多くの祈りの力が集まれば大きなことができるという徳の力の話だという。
 
 思えば、去年せっかくギュメにいっていろいろ記録をとってきたのに、英作文とか、インコの子育てとかに忙殺されてアップしていなかったので、後篇にその時の記録を挙げたいと思います。

(すべての写真はクリックすると大きくなります)
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DATE: 2018/08/18(土)   CATEGORY: 未分類
石濵純太郎先生没後50年シンポ
関西大学の文学部を創設した石濵純太郎先生の没後50年を記念してシンポジウムが開催されます。二日目の最終枠で本ブログでもなんどか紹介させていただいた歴史サークル益習の集い、四国大学の太田剛教授、そして私は石濵家の歴史についてお話します。
 お近くの方、どうぞ。

●東西学術研究と文化交渉――石濵純太郎没後50年記念国際シンポジウム

〔第58回泊園記念講座〕
主催:東西学術研究所
共催:大阪府、泊園記念会、KU-ORCAS

日時: 2018年10月26日(金)13:00~17:00 
27日(土)10:00~17:00
場所: 関西大学千里山キャンパス 以文館4階セミナースペース

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10月26日(金)

〈石濵純太郎と泊園書院・関西大学〉
吾妻重二(関西大学文学部教授、泊園記念会会長)
〈石濵純太郎とアジア学1〉
高田時雄(京都大学名誉教授) 
索羅寧(Kirill Solonin,中国人民大学国学院教授)
劉進宝(浙江大学歴史系教授兼主任)
池尻陽子(関西大学文学部准教授) 

●10月27日(土)
〈石濵純太郎とアジア学2〉

中見立夫(東京外国語大学名誉教授) 
生田美智子(大阪大学名誉教授)
玄 幸子(関西大学外国語学部教授)
内田慶市(関西大学外国語学部教授)

〈石濵純太郎と大阪の学知・文芸〉
湯浅邦弘(大阪大学文学研究科教授) 
堤 一昭(大阪大学文学研究科教授) 
中谷伸生(関西大学文学部教授)
増田周子(関西大学文学部教授)

〈石濵純太郎のルーツをめぐって〉
石濱裕美子(早稲田大教育・総合科学学術院教授)←ココ
太田 剛(四国大学文学部教授) 
三宅玉峰(「益習の集い」代表) 
田山泰三(英明高等学校) 

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DATE: 2018/07/17(火)   CATEGORY: 未分類
テンジン・デレク師の死の詳細
テンジン・ゲレク・リンポチェは東チベット地域の人々にわかりやすく仏教の教えをとき、学校をたてるなどチベットの福祉のために働き、地域の人々の尊敬を集めていた高僧であった。しかし、2002年に爆弾犯の汚名を帰せられ逮捕され2015年に獄死された。世界の人権団体が釈放運動を行っていたため、この報せに世界は悲しみに沈んだ。
 
 今回来日されたニマラモさんはデレク師の妹さんの娘さん、つまり姪御さんである。デレク師の死について言論の自由のあるところで発言したいと2016年にダラムサラへと亡命された。家族に累が及ばないように、母親にも小さな娘にも何も告げずに、ただ父親の実家に行くといって家をでたとのことである。

通訳のXさんはアムド(東北チベット)の方なのでカム(東チベット)出身のニマラモと意思の疎通に苦労していた。チベットの政治犯関連の証言会の問題点はこの言葉の問題。本土チベットから亡命される方は英語ができない。またチベット語は地域によって発音がいろいろなので、なかなか彼らの証言が多くの人々に伝達できないのである。
 
以下がニマラモさんのお話である。

私は初めて日本にきました。こういう機会をつくってくれて感謝しております。またお暑い中集まっていただき誠にありがとうございました。
わたしの名前はニマラモといいます。〔東チベットの〕リタン出身です。2016年の7月末にダラムサラに亡命しました。
 亡命した理由は伯父のリンポチェ(ニマさんはテンジン・デレク師のことを「転生僧猊下」を意味するこの尊称で呼ぶ)の死について証言するためです。
 リンポチェは27才の1979年に、〔文革後、中国政府がチベット亡命政府に呼びかけて実現した〕ダライラマの代表団がチベットにきた際に、代表団長を行っていたダライラマ14世の弟さんロプサン・サムテンに大きな声でうったえ、その目にとまりました。

 解説* 当時共産党は20年にわたる共産党の統治(文化大革命により徹底的に伝統文化を破壊したため)でチベット人はすっかり中国人になったと自信をもっていたため、代表団を迎え入れた。しかし、代表団がチベット入りするとその予定はまったく未公開であったにも関わらず行く先々にチベット人がつめかけ、代表団に20年の苦境を泣きながら訴えた。当局はこの事態に驚愕し代表団と民衆の接触を阻んだため、集まった人々は代表団に大きな声で呼びかけるしかなかった。
 
 〔文革が終わり軟禁状態から解放された〕パンチェン・リンポチェが会議のためにラサにきた時も、リンポチェは会いに行きました。パンチェン・リンポチェは「代表団に呼びかけた方でしょう?」と識別してくれたため、リタン地域にはお寺がいっこもなくなってしまったこと、再建の手助けをして欲しいと訴えました。

 1982年にインドにいってダライラマ法王に会いに行きました。南インドのデプン寺で地域のオト寺の転生僧(リンポチェ)に認定され、五年インドで勉強しましたが、地元の人々が本土に戻ってお寺を再建して欲しいと言うのでチベットにもどりました。北京にいるパンチェン・リンポチェに会いに行って、訴えると、パンチェンラマは喜んで〔お寺のための〕仏像・仏典などを提供してくれました。このオト寺を皮切りに、東チベットで九カ所のお寺を再建しました。さらに学校のない遊牧民のすむ地域に学校を作りました。リンポチェは「子供たちを教育しなければ、中国人ともわたりあえない。中国人はチベットにきて生活できるがチベッ人は中国語ができないと中国では生きていけない」といいました。

 解説: 中国が支配するチベットでは中国語ができないと就職もなく、中国の法律をしらず文字もよめないと土地も簡単にとられてしまい貧窮化し共同体を守れない。

 リタン県の教育局に本を提供してもらい、土地、建物はこちらで用意して二年間かけたのに、「個人」で学校をつくるなんてけしからんと、許可がでませんでした。

 本土のチベット人は中国から繰り返し繰り返しダライラマに関するネガティブな情報を聞かされます。リンポチェはそんなチベット人に、ダライラマ法王は世界的にみても、ノーベル平和賞をもらって尊敬を集めていること、チベット人にとってもチベットを育んできた観音菩薩の化身であり、虫にいたるまで愛をもって接している慈悲に満ちた方であることを説き、誰が何とダライラマを批判しようとも、ダライラマのいうことが事実である。と話しました。

 僧侶に向かっても仏教者の自覚をもつように説き、普通の人達に対してもたとえばコックさんには美味しいものをお客さんに提供しようと料理を作る事で日常生活でも仏教を実践することができる、と非常に分かりやすい言葉で仏教を説きました。

リンポチェについて中国は「生まれ変わり」など認めない、彼は爆弾犯である、と貶めました。中国はそういうことをするのです。私は小さい時から日本人はひどいことばかりをやると教えられてきましたので、実際日本人を何となく恐れるようになっていましたが、どんな人にも家族がいて感情がありますから、中国が教えるようにすべての民族が残酷になるようなことはありえません。

保育園でも学校でもリンポチェがなにかを作ろうとすると地元の政府が妨害しました。97年から2002年までは当局から追われるようになり山ににげたり、セルタに匿われたりしていましたが、ついに2002年7月8日にリンポチェと弟子五人が逮捕されました。このうちロサントンドゥプは八ヶ月後に処刑されました。他の四人も刑務所からでてきた時には、拷問を受けて半死半生でした。昔リンポチェと一緒働いたという理由だけで逮捕された人もいました。

 リンポチェには当初死刑判決がでましたが、〔国際的な釈放活動の結果〕二年後に終身刑になりました。しかし、その後五年間どこの刑務所にいれられたのか皆目わかりませんでした。ガンツェの地元の人がリンポチェの収監されている場所を教えろとハンガーストライキやってはじめて面会できるようなりました。しかし、この13年間、リンポチェが家族と面会が許されたのはたった六回でした。

ドルカルラモ(sgrol dkar lha moニマラモの母にしてリンポチェの妹)がリンポチェに最期にあった時、リンポチェは身体の具合が悪そうであり、「あなたは偉いお坊さんらしいから空中浮遊ができるんでしょうとばかにされ、殴る蹴るの暴行を受けている」と言いました。お坊さんが殴られるなんて信じられません。知りたくなかったです。リンポチェは「自分はダライラマの弟子であり、チベットを愛している。私が刑務所にいる理由はダライラマを愛しチベットを愛しているからだ」と言いました。


*解説 チベットではお坊さんは人格の完成度で評価され、お坊さんに手をあげるなど考えられない。

弟子、家族は仮釈放を実現させようと北京やいろいろなところに請願にぃきましたが、何の効果もありませんでした。法律がないんです。

2015年7月2日、 当局から母ともう一人のリンポチェの妹に面会を許可するという通達がきました。そこで成都の鄧小平のふるさとにある刑務所に出向きましたが、10日たっても逢えないまま、7月12日 に突然リンポチェがなくなったと言われました。


*このあたりから、涙声になりお話の内容の時系列がはっきりわからなくなったので、当時の記事などを参考にして以下のように整理してみた。まちがっていたら誰か指摘してください。

 遺体をひきとろうと申し出た人は、みな殴られたり罵られたりしました。私の母と伯母が壁にあたまぶつけ、自殺をはかろうとすると、やっと人がでてきて対応してくれましたが、別室につれていかれて自殺をとめられただけでした。

 当局から何か要望があるかと聞かれたので、
一つ目中国には獄死した人間の遺体を15日以内に遺族に戻す法律がある。
二つ、病気でなくなったというなら診断書をみせてください。
三つ、遺体の検死を行わせてください。
四つ、家族に遺体をみせてください。五つ、家族に遺体をひきわたさないなら、リンポチェはあんたたちに殺されたと公表すると言いました。

そののち、遺体に会うことができました。まずはリンポチェの弟子が身体を洗ってその後わたしたちはリンポチェの遺体と対面しました。遺体には身体をあらった弟子がかけたハタがかけられていました。私は顔だけ見ましたが唇が黒くなっており、その時は死んだからそうなるのかと思いましたが、後に身体を洗った弟子が、唇だけでなく爪も真っ黒で、あたまもへこんでいた。毒殺ですと言いました。そのため、成都の記者にこれを伝えて下さいと電話をしようとしましたが、携帯を没収されて外に連絡できなくなりました。

お母さんは悲しみで気絶しました。自分もどうなっているのか、どうしていいかわからず、このことを訴える場所もなく、母親はこのまま死んでしまうんじゃないかと思いました。

 リタンの副県知事がきて、母に、「リンポチェは法律に違反してしんだのだから、以下のことを記した紙にサインしろ」と言いました。そこにはこう書かれていました。

1. 私たちはチベットではリンポチェに関するいかなる情報も話さない。
2. 私たちはリンポチェが毒殺されたと中国当局を批判しない。
3. 公共の場でリンポチェの死について話さない。

母はリンポチェは法律を破っていません、といってサインは拒否しました。

この他にも、当局は以下のことを行いました。
1. 家族がリンポチェの葬儀をすることは禁止。
2.伝統として高僧の死後には仏塔をつくるが、それも禁止。
3. 伝統として高僧の写真を仏壇に飾るが、リンポチェの写真を飾ることは禁止。
4.リンポチェについてテレビで「偽坊主、犯罪者、社会の脅威」とネガティブキャンペーンをはった。
5. リンポチェの刑務所内での私物は当局に焼却された。

我々家族はリンポチェが死ぬ日まで10日も待たせられ、死んだ時間も発表する場所によって一定しおらず、刑務所では師を治療したというが、その詳細もわからず、中国の法律によると遺体は15日以内に家族に引き渡すのにそれもなかった。
これらのすべてを踏まえて家族はリンポチェは毒殺されたと信じています。

私は話が上手くないし、教育もないけど、リンポチェの死の真実を伝えたいと思い亡命しました。
言葉をつまらし、長い沈黙が訪れた。
リンポチェだけでなくパンチェンラマも同じような死に方をしたと聞いています。高僧たちはみないじめられて苦労をしています。私みたいな人が簡単に伝えられるようなものではありません。
 苦しい、つらいだけの話ですみません。ありがとうございました。


*:。.:*:・'゜☆。.:*:・'゜
ニマラモさんのスピーチツァーは以後も名古屋、大阪、福岡と続きます。以下に貼っておきます。
●名古屋
日時: 2018年7月18日(水)18:00開始
会場: 名古屋国際センター(名古屋市中村区那古野1-47-1)
入場無料

●大阪 劉燕子さん対談―女性が語るチベットの人権―
日時: 2018年7月20日(金)19:00開始
会場: Tibet kitchen bar Mother Land(大阪市中央区西心斎橋2-8-3ラフィーヌ西心斎橋6F)
料金: 1500円(チベットディナー代/飲み物別料金)
要予約。お申し込みはこちらから。

●福岡
日時: 2018年7月21日(土)14:00開場 14:30開演
会場: 福岡市市民福祉プラザ(ふくふくプラザ)(福岡市中央区荒戸3-3-39)
入場無料。お申し込みはこちらから。

●広島
日時: 2018年7月22日(日)13:30開始
会場: JMSアステールプラザ(広島区中区加古町4-17)
入場無料、申し込み不要。
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DATE: 2018/07/12(木)   CATEGORY: 未分類
第三回テンジン・デレク賞は『ジクデル』の撮影者に
月曜日に、第三回テンジン・デレク「勇気のメダル」賞が日本で発表された。
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この賞の冠となっているテンジン・デレク師。彼について知らない方、知っていたけど忘れた方のために簡単に紹介。
テンジン・デレク師はインドで仏教の勉強をし、チベット本土にもどってから、当局の妨害と戦いつつ、お寺を再建し、チベット人の子供がチベット語で教育を受けられる学校、養老院を建てるなどして、本土の人々から敬愛されていた。しかし、その活躍が目障りだったのか、2002年突如としてあろうことか「爆弾犯」の汚名を帰せられ逮捕され当局は死刑判決を下した。世界中の支援者たちがいくらなんでもひどいと運動した結果、死刑こそ撤回されたものの、2015年に獄中でなくなられてしまった。

 その後、彼の死を悼みかつ、中国の支配に非暴力で抵抗した人たちの勇気を顕彰するために、テンジン・デレク「勇気のメダル」賞が創設され、テンジンデレク師の訃報が当局から発表された7月13日に受賞者を発表することとなった。

 三回目にあたる今年は日本で表彰式が行われた。

ちなみに、第一回目の受賞式はダラムサラで行われ、受賞したのはラサ出身の元医師イシ・チュドン(Yeshe Chedron)さん。2008年の3月から4月における抗議運動の際に"ダライ一党"に情報を提供し国家の安全を脅かしたという謎な理由から、15年の懲役刑を科された方。

昨年の第二回のデレク賞はワシントンで表彰式が行われ、受賞したのはタシワンチュク(33)さん。「チベット語教育の重要性をブログで訴えただけ」で、国際社会の訴えもむなしく、五年間の刑を言い渡された方。
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受賞式にはInternational Tibetan Networkの代表アリソン・レイノルズ(Allison Reynolds)、テンジン・デレクリンポチェの姪、ニマ・ラモさんも参加された。後者がテンジン・デレク・リンポチェの事績を涙ながらに語る姿はとても痛々しかった。
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でいよいよ発表、第三回のテンジン・デレク賞は、北京オリンピックの行われた2008年の年、封殺されるチベット人の声をあつめたドキュメンタリー『恐怖を乗り越えて』(Leaving Fear behind: チベット名"ジクデル")を撮ったことにより投獄されたトンドゥプ・ワンチェン(1974-)と元僧侶ゴロク・ジクメであった。

このドキュメンタリーが作成された直後、チベット蜂起が起きたため、『恐怖を乗り越えて』はチベット人の本音を伝えたものとして世界中で視聴された。トンドゥプ国際的な釈放運動によって幸いにも2014年に釈放されたものの公安の監視下におかれ、彼が妻子のいるアメリカへと出られたのはつい最近のことである。彼の渡米成功はチベット支援で名高いアメリカの元下院議長ナンシー・ペロシの力であったと言われている。

 トンドゥプワンチェンにはラモツォという線の細い可愛らしい奥さまがいらっしゃるのだが、突然夫を奪われ子供や姪を生活苦の中で養いながら苦労しつつ、最終的にアメリカに移住する姿は『ラモツォの亡命ノート』というドキュメンタリーとなっている。


ゴロクジクメは2012年に中国の監獄を脱獄し、13ヶ月いろいろな方に匿われながら2014年に国境を越えスイスに亡命することに成功した。彼はその後、2022年の北京冬季オリンピック開催誘致に反対する活動の中心メンバーとなった。

ニマ・ラモさんのテンジン・デレク師の人生と死について語るトーク・イベントツァーは以下の日程で行われます。お近くの方は是非是非お運びください。かわいらしい方ですよ。

●東京
日時: 2018年7月16日(月・祝)15:30開場 16:00開演
会場: 国立オリンピック記念青少年総合センター センター棟103室(東京都渋谷区代々木神園町3-1)
小田急線 参宮橋駅下車 約7分/東京メトロ代々木公園駅下車(4番出口)約10分
入場無料。
●名古屋
日時: 2018年7月18日(水)18:00開始
会場: 名古屋国際センター(名古屋市中村区那古野1-47-1)
入場無料

●大阪 劉燕子さん対談―女性が語るチベットの人権―
日時: 2018年7月20日(金)19:00開始
会場: Tibet kitchen bar Mother Land(大阪市中央区西心斎橋2-8-3ラフィーヌ西心斎橋6F)
料金: 1500円(チベットディナー代/飲み物別料金)
要予約。お申し込みはこちらから。

●福岡
日時: 2018年7月21日(土)14:00開場 14:30開演
会場: 福岡市市民福祉プラザ(ふくふくプラザ)(福岡市中央区荒戸3-3-39)
入場無料。お申し込みはこちらから。

●広島
日時: 2018年7月22日(日)13:30開始
会場: JMSアステールプラザ(広島区中区加古町4-17)
入場無料、申し込み不要。
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